被害者と加害者

こういう話をしてしまうと、
それは極論であり
理想論だという批判もおこることは
至極当然の事ではあるのですが、
しかし客観的、大局的に見て、
被害者は
被害者という自己規定から
脱却するべきだと思うのです。
それはくすぶる民族問題、
帝国主義の被害者からの
脱却であったり、
いじめられたという
被害者からの脱却であったりするのでしょう。
早い話が、乱暴に言ってしまうと
いつまでも被害者ぶるな
という事。
もちろん、感情論がそれを許さない事は
百も承知です。
しかし、
被害者がいるという事は
それすなわち
加害者を作っている事になるのです。
被害者がいるから
加害者がいる。
加害者がいるから
被害者がいる。
この関係性は切っても切り離せません。
本当に因縁を断ちたいのなら、
被害者が「赦す」べきなのです。
被害者が、
被害への報いを要求しはじめると
こんどはその被害者が
加害者へと変わります。
加害者となった被害者が
立場を変えて
新たな被害者を作る。
報復行為を繰り返すだけでは
この悪しき因縁から
脱却する事はかなわないのです。
過去などというものは
人為的に清算すべき質のものではありません。
過去とは過ぎ去った物事。
もうここには無いものなのに、
人の心は
いつまでも過去の出来事を
心に持ち続けてしまうもの。
そんな過去に囚われているから
いつまで経っても
自分が被害者である事を
止める事が出来ないのです。
未来志向とは
過去の清算の上に成り立つものではありません。
過去の忘却によって
はじめて成立するものなのです。
物事は一方向に
今から沸き起こり、
過去へと流れ消えていくもの。
いつまでも
被害者という立場を引きずっていては
本当は自身も辛いし、
先にも述べたように
被害者が加害者に変わってしまう事さえあります。
そして負の連鎖が止まらなくなる。
もちろん、
大きな大罪を被った人にとっては
にわかに
認められない事である事は
当然でしょう。
僕だって
大きな罪の被害者となった時、
その罪を赦す事が出来るかは
正直言って自身はありません。
だからといって、
被害者であり続ける事で
そこにどんな建設的な物事が
生まれるのでしょう。
むしろ被害者であり続ける事もまた
人生の悲劇だと思うのです。
受けた大きな傷は難しいかもしれない。
しかし、
自身が容認出来る
小さな被害者意識から
順番にひとつづつ
赦していく事は出来るのではないでしょうか。
被害者意識を手放すという事は
自分を癒す事に繋がるのです。
故に本当は、
世代を超えた遺恨さえ
手放せる事が理想なのです。