「証」のロジック

「証しを見せろ」
と問われたならその答えは
たった一つ。
「疑うのか」
それが答えであり、
証しを問う事への更なる問いです。
この世のあらゆる物事は
真実であるか
偽りであるかの
ふたつしかないのです。
証しを欲するというのは
そこに偽りを見いだしている事の
顕われなのです。
真実か偽りかを
偽りの立ち位置から見ているのです。
この世の物事すべては
本当は何も意味を持っていないのです。
真実か偽りかという概念もありません。
ただそこに事実、事象があるだけ。
人はその事実や事象に直面した時、
第一の選択を迫られます。
本当か嘘か。
人生に於いて遭遇する
あらゆる物事の意味付けは、
本当か嘘かの評価を起点に
あらゆる分岐をたどって
最終的に
「自分はそれをこう規定する」と、
自分なりの意味を
自分で「選択」しているのです。
嘘という漢字は
口に虚と書きます。
つまり偽りとは
「虚」なのです。
何も無い状態の事なのです。
逆に真実とは
「実(じつ)」の事。
在るという状態を指します。
「虚」と「実」とは
意味付けされているか
されていないかの違いと
言い換えても良いかもしれません。
人は物事に
意味を見いだす事によって
それは真実となるのです。
自分にとって
何一つ意味の無いものを
人は認識出来ません。
意味の無い物事もある、
そう思えるような事も
実は
「無意味」という意味を
そこに見いだしているので、
そこには
「無意味」という「意味」が
形成されているのです。
この「虚」の概念ですら
「虚」であると規定した時点で
それは「実」となってしまうし、
「認識出来ない、知らないもの」という
概念をもってしまった途端に
それは「虚」ではなく、
「認識出来ない、知らないものを認識している」
という「実」になってしまう。
「真の無意味」は
本当にそこに何も無く、
認知すら出来ない
「虚」の状態なのです。
故に人が
意味付けを成すものは
すべて
「実」であり真実なのです。
自分の思う事が、
自分が規定している事が
そっくりそのまま、
あらゆるものが
すべて真実なのです。
それは同時に
疑えば、その分だけ
疑わしい真実を見てしまう事をも
意味するのです。
元々は何も無いのです。
意味付けをする事で
「虚」から「実」に変わる。
意味付けが
この世界に生命を宿すのです。
地球の裏側の国に住んでいる人も、
隣りの人も、
恋人も、家族も、
究極的にすべては
自分の意味付けがあるから
存在し得るのです。
それは他者だけでなく
自分自身にも言える事で、
自分自身ですら
意味付けがあるから
今ここにあるし、
何かしらの意味付けによって
結ばれた両親の
何かしらの意味付けによって
生みだされたという
見方も出来るのです。
本当に本当の
始まりのはじめ、
ただ一点の
「実」か「虚」か、
つまり
「在る」か「無い」か
という選択が提示されました。
永遠とも言えるほどの長い間
ずっと何も無かった「場」が
ある日、
その虚無の状態に対して
「証しを見せろ」と
揺らいだのです。
この世の一番はじまりの
疑念という揺らぎに対し
「在る」ことを選択し、
和紙に一点の墨が落ち、
瞬く間に染み出して広がっていくように、
「在る」ものは次の
「実」か「虚」かという揺らぎを生み、
「在る」事の選択を繰り返し続け
分岐、分裂を繰り返した結果として
今が在るし、
これからもその選択、
つまり分岐、分裂は続いていきます。
その事象、顕現の最先端では
常に
「実」か「虚」かの
選択が付いてまわり、
「在る」方を選ぶ。
いつしかはじめの
「証しを見せろ」という揺らぎは
あらゆるものを
生みだし、創り出す力となりました。
そして現に人は今、この瞬間も
自分自身で
「在る」事を選択し続けています。
揺らぎ続けています。
その揺らぎもやがては止まり、
また元の虚無に還るでしょう。
今現在、揺らいだ状態にあり、
「実」と「虚」のどちらかを
選択を出来る自分もまた
「在る」という意味付けをされた
ひとつの存在に過ぎず、
元をたどれば
最初の
「実」か「虚」かの選択から
気の遠くなるほどの数の
選択の結果という「顕われ」なのです。
冒頭にある
「証しを見せろ」の
問いへの回答としての
「疑うのか」とはつまり、
疑念という真実を
選択し続けている限り
いつまでも
疑わしいものは
疑わしいままである、
というのが真意なのです。
疑わしいという意味付けを
選択をしているのなら
それはその通りに
嘘偽り無く
疑わしいものなのだろう。
しかし考えてみれば、
それに疑わしい意味付けをする存在は
いったいどのような意味付けによって
ここに存在しているのか。
その存在に対して自分は
どのような意味付けを
選択するというのか。
何故に
証しを求める者という
意味をその者に見いだしたのか。
それは
証しを求める者の存在を
自分がコミットし、
選択したからに他ならないのです。
証しが必要とする者としての「意味」を
誰であろう、
自分自身そのものが見いだしている。
という事は
証しを求める者とは
実は自分自身であり、
証しを求められる状況を
「実」として選択した
結果と言えるわけです。
結局、
「証しを見せろ」と
問わせしめたのは自分、
それに対し
「疑うのか」と答えたのも自分なのです。
このシチュエーションこそ、
自分が何かしらの意味付けを
選択した結果としての顕われなのです。
本当にそこには
元々何も無かったのです。
何も無かったところに
ひとつの意味が生まれました。
「在る」という意味が。
そして、
その意味が広がった結果として
ひとりひとり、
つまり自分自身という存在が顕われているのです。