ガンダム論3〜原子力という道具

今日と明後日は
日本に原爆が落ちた日、
いや、
地球に原爆が落ちた日です。
「人の叡智が生みだしたものなら
人を救ってみせろ!」
これはターンエーガンダムの劇中で、
月の街に墜落しそうな小惑星を
ひょんな事から捨てるようにと言われ
渡された核爆弾で破壊し、
その墜落を阻止しようとする時の台詞です。
街ひとつを一瞬に焼き尽くし破壊する
原子爆弾、つまり核爆弾が
ひとつの街を救ったシーンです。
原子力、つまり行き着こところである
放射線の発見は科学、
特に医療分野に於いて大きな貢献をしました。
レントゲンやCTスキャン、
癌の放射線治療などは
この放射線の特性を利用した技術です。
有名なキュリー夫人は
まさに放射能研究の第一人者でした。
その後、放射能や放射線の研究が進み
それが「原子の力」である事が分かり、
原子核を分裂をさせる事で
膨大なエネルギーが生まれる事を発見しました。
これは人類にとって
確かに大いなる発見であったし、
それを有効に利用する事こそ
人の叡智という御業であると言えるでしょう。
原子力は上手に使えば
人の生活を豊かにする事が出来るのでしょうし、
きっと原子力や
そこから発生する放射線の
研究に携わってきた人たちも
何かしら人に良かれと思って
研究していたと信じたいです。
しかし、
この人の叡智が生みだしたものが
戦争に使われ、
その原子の膨大なエネルギーは
一瞬に大量の人を殺す
兵器として利用されてしまいました。
8月6日と9日は人類にとって
その叡智を凶器に変えて
同じ人類を大量に殺戮してしまった
忌まわしき日です。
これは人類最大の大罪である事は
揺るぎのない事実です。
上手に使えば便利なものなのに、
使い方を間違えて悲劇を招いてしまうものは
たくさんあります。
刃物もそうですし、
石や火だってそうです。
道具は使う人の心次第で
善きものにも悪しきものにもなる。
ガンダムに出てくるロボットは
兵器であり武力です。
ターンエーガンダム以外のガンダムでも
そういう扱いです。(全部を見てないので知りませんが)
しかし、
ターンエーガンダムの主人公はこの、
人を威嚇し、傷つける事を
運命付けられたロボット兵器で
人を運ぶし、家畜も運ぶ。
洗濯までするどころか、
それを乾燥させる事までするのです。
兵器も所詮は道具。
その知恵の
使いようによっては
いくらでも平和利用が出来る。
それをターンエーガンダムは
教えてくれます。
使う人の心次第で
同じ道具でも
性質が正反対に変わってしまう、
それが道具というものであり、
また「人の叡智」の二面性なのかもしれません。
「人の叡智が生みだしたものなら
人を救ってみせろ」
という台詞には、
「せっかく人の叡智によって
生みだしたものなのだから、
その叡智を持ってして正しく使えよ」と、
そういう真意があるように思えます。
原子力は人類にとって
危険なものなのかもしれない。
だから
使わなければ間違いも起きないでしょう。
僕はこのガンダムの台詞、
「人の叡智が~」のくだりを
あたらめて
思い出して思うに、
危険だから使うなという理屈は
全面的に正しい事でも
ないのではないかと考えはじめました。
僕自身も、福島の原発事故を見て
こんな危ないもの使うなよと
実際、考えましたし
ブログでも原子力発電の危険性に
触れた記憶もあります。
しかし、
ここで原子の力を封印してしまうだけでは
人類は進歩出来ないのではないかとも
思いはじめているのです。
今、国民の多くが
原子力についてナーバスになって
目くじらを立てています。
それは小学生の頃から
広島や長崎の悲劇を歴史で学び、
非核三原則、つまり
核を作らない、使わない、持ち込まない
という精神を社会科で学び、
そうした無意識の刷り込みが
2011年の福島の原発事故の一件で
一気に甦ったのかも知れません。
いずれにしろ、
核、放射能、そうしたものに
今の日本人は、
非常に神経質になっていますが、
ただやみくもに
叡智の結晶を捨てるのではなく、
「ならばいかに安全に利用出来るか」
ここについて論じている人、
あまり聞きません。
火傷したから火は使わない
ではなく、
どうしたら火傷せずに火を使えるか、
こうした発想に立って
誰も議論しないのが不思議です。
まあ実際問題、
僕みたいに
何を言っても影響力のない
一市民が
エアコンの効いた部屋で
ブログに書くくらいなら
阿呆でも出来るのですよ。
はっきり言って僕などのような輩には
大衆を導く力はないです。
ただ僕を含め、皆が
NOTではなくHOWの方向に
論点を置けるようになると良いのに
と思うのです。
嫌!嫌!と叫ぶだけでは
人類は先に進めないのではないでしょうか。
安全な使い方を考える事こそ
人の叡智の使いどころのように思うのです。
今、本当に問われているのは
原子力発電の運用の是非ではないのです。
もちろんそれは
表層的に論議される事ではあります。
しかし問いの本質は
そこではない。
「いかに原子力発電を安全に運用するか」
なのです。
原子の力を安全に使えるようになって
はじめて人類は
原子の力を手に入れたと言っても良いと思います。
もちろん、
安全な使い方を導きだすまで
その力を封印しておく事も
良策でしょう。
しかし、
原子の力を安全な使い方を考えるのは
研究者の仕事であるから
あとは任せたと
丸投げにして良いものでもありません。
きっとこの力は
科学以外に、
法律や民意、社会構造、
経済に倫理、教育。
そうした多岐にわたる分野にまで
問いかけが及ぶでしょう。
それほどまでに
人の生活に関わる力なのだから、
実際に生活している
人、それぞれが
より善くあるにはいかにするか、
いかなる事が出来るのか、
そこを考えなければならないと思うのです。
人の叡智が生みだしたものなら
人の叡智でそれを善く育ててみせよ。