奇麗事に自信を持つ


僕のブログを読んで

奇麗事を言っているなんて思って、
鼻で笑って
通り過ぎていく人も
中にはきっと居るのでしょう。
しかし奇麗事という言葉は、
何故かあまり
良い意味で使われなかったりしますが、
奇麗事とは
悪いことなのでしょうか。
考えてみれば、
奇麗事というのは
奇麗な事だから
奇麗事というわけで、
美しい事を語って何が悪いのかと
思うのです。
ただもちろん、
その奇麗な言葉に見合うだけの
言動や思想、精神性は
伴っていなければいけないと思うし、
そうでないのなら
伴うよう
自分を磨けば良いだけの事なのです。
奇麗なものを
積み上げていけば良い。
故に
奇麗事の何が悪いというのでしょうか。
自己肥大も結構。
自己を肥やして
大きくしようと考えるのは
人としての自然な
衝動、発露なのではないでしょうか。
自己が肥えるから
そこに成る実もまた
豊穣な事でしょう。
何故、
誰が決めたかも、
それが正しいかも分からないような
形骸的な観念に
自己を押し込めて矮小化する事が
世間では肯定されるのか、
そちらの方が
意味が分からないです。
そのようなものは、
戦争中の全体主義思想が
その死の際でかけた呪いですよ。
呪いは解かなければいけない。
奇麗事を聞いて
拒絶感を覚えるようであれば、
もうその時点で既に
その心は荒んでいると思うのです。
その心は渇いて荒れた大地のようだ。
可能性の芽を一つづつ摘んで
自分を偏狭なものに
貶める必要はないと思うのです。
美しい夢を
この世に形づくらせようとする
その想いを嗤い、
打ち消そうとする力には
断固とした毅然たる心で
あがなわなければならない、
そう思うのです。