真善美2

先週、僕は
「真善美」という概念について
僕個人としての見解として
それは
人の美徳の質、バリエーションであり
「人間存在の真理に至る道であり門である」
と規定していると言いました。
では具体的にどういうことなのかを
説明するなら、
つまりはこういう事なのです。
人は美徳をしてはじめて
その精神性を高める事が出来、
人生というものはきっと
そうした精神性を高めるための
レッスンの連続であると
仮定し、前提とした時、
その美徳のバリエーションとして
「真」を追求して徳を得る生き方、
「善」を追求して徳を得る生き方、
「美」を追求して徳を得る生き方の
三つが存在する事が示唆されるという事です。
もちろん
真、善、美の序列がそのまま
それらのプライオリティに繋がるという
意味合いはありません。
この三つ、どれもが一様に
重要な要素ですし、
可能であるならその三つすべてを
バランスよく追求していく事が
理想でしょう。
「真」を追求するとは
それすなわち真実を追究する事であり、
学術を生きる人生を示します。
何につけ「学び」を尊ぶ生き方です。
それは科学や医学などに還元されるでしょう。
「善」を追求する事は
己の社会性を追求する事であり、
奉仕に関わる人生を生きるものである事を示し、
奉仕活動や公序良俗などに還元されるでしょう。
また「美」を追求する事は
文字通り、美的感覚を追求する事であり
創造性や感性に関わる生き方を指します。
それは人や社会のイノベーションに還元されるでしょう。
つまるところ、
人は美徳を高める術として
究極的にこの三つの生き方の
どれかしらを生きて
自己を磨いているものだったりするのだという事。
もちろんこの三つのうち一つを選ばなければならない
などということはなく、
人生においてほとんどの場合は
これら三つが複合的に絡み合ってくるものだと
考えられます。
なぜなら
「真」を追求した時
そこには
「善」や「美」も存在する事が最良ですし、
最良それ即ち「真」なわけです。
このように「善」や「美」を追求したとしても
最良の結果を得るために
それ以外の二つは
必ず不可欠なものとして要求されます。
要するに上記の観点から見る
真、善、美の経験値を上げる事で
自らの精神性のステージ、レベルが上がっていくもの、
そう捉えると分かりやすいかもしれません。
「真」とは絶対論であり
揺るがないものですが、
「善」はその「真」の概念から生じる
「肯定と否定」の二元論に展開され、
「美」はその二元論をどちらかに
方向付ける実際的な力学としての
「意志」へと完結します。
この流れを逆にたどっていく行為こそが
三つの美徳に通ずる道なのです。
はじめに美学という「個人の意志」があり
「肯定と否定」という葛藤を乗り越え、
絶対的な「真理」に至る、
その過程において「人の徳」は形成される。
もっと簡単に表現するなら、
はじめに何かしらの「理念」があり(真)、
それの善し悪しを判断し(善)、
それを実践する
美学という原動力がそこに生まれる(美)、
こう言うとイメージしやすいでしょうか。
そしてこうした流れそのものこそが
世界の姿であるのかも知れません。
そういう意味において
「真善美」を意識する生き方の実践は
非常に興味深いものがあります。