無病息災は人にとって荷が重い

ずいぶん前、ここで
不老長寿は命の価値を下げるという
話をした事がありました。

簡単に内容を説明するなら早い話、
人間の身体の部位のうち、
悪くなったものを機械の部品を付け替える事が
おいそれと簡単に可能になったとしたら
人は自分の身体を大事にしなくなる、
すなわち転じて命の価値が下がる。

そういう話でした。

ここでさらに踏み込んだ考察をしてみたいと思います。

医療というものは、
とりあえず現状として
病んだ身体(心もですが)を治療する事が
最初の目的であり、動機ではあります。

いつになるか、
それが何10年先か、何100年先かは分かりませんが、
医療だけではなく、科学も含めて人類は
いつかはあらゆる病気が治せるまでの
技術を身につける事でしょう。

しかし、いくら病気や怪我は治せても
人間は小さなものから大きなもの、
先天的なものから後天的なものまで、
一生のうちで何かしら病んでしまうもの。
風邪ひとつひかず無病で
一切の怪我も無いままに
生涯を終える人がこの世にいるとしたら、
それは奇跡でしょう。

そして、あくまで
あらゆる病気や怪我が治せるものとなった
という前提に於いて仮定するなら、
医療というものの研究対象は
今のような病気の解明や治療法という質のものから
やがていかに未然に防ぐか、
つまり予防医学的なアプローチでの
研究が主体になっていくのだろうなと思います。
まあ、重ね重ね
あくまで「すべての病気や怪我が完治可能であれば」
という前提が絶対条件ですが。

人類があらゆる病気を治せるようになり、
また病気に罹るリスクさえマネージメント出来るとなると、
人類の世界は今とは全く違うものとなるでしょう。

何より、問われるものの質が
非常に難しく、倫理を通り越して
哲学にまで近接する部分にまで到達してしまいます。

ざっくり簡単に例を挙げるなら、
究極まで医療が発達するとしたなら
まずもって人は簡単に死ななくなります。
それこそ、不慮の事故でもない限り
いくら老いても人は生き続けるのです。
これは死ななくなると言うより、
もしかすると死なせてくれなくなると言った方が
雰囲気的に的を射ているかも知れません。

技術によって、物理的、機能的に
いくらでも延命が可能になるという事は、
否が応でも自分が世を去るタイミングは
自分で決めなくては無くなるのです。

つまり、究極の医療技術に到達した時、
人は自分の生き死にを
自分で決めなくてはならなくなるのです。

当然、世を去るという事は
周囲への影響が間違いなく起こるわけで、
それはいかに生命を軟着陸させるか、
もっと言えば
いかに罪を作らずこの世をされるか、
そういう問いかけを人に強いる、
それが不老長寿なのです。

この答えを出せる人間など
聖人君子でもなければ導き出せる筈は無いし、
仮に人類が皆、聖人のごとき叡智を獲得していて
その答えを導けたとしても、
人が人をしてこの世を去る条件というのは
地球から月の地面に刺した針の穴に
ロケットを手動で通せと言うくらいの
極限、限定的な条件に行き着くでしょう。

そしてさらには、
「病む事」の定義すら変わってくるのです。
この辺りについてはまた後日、
そのうち書きたいと思いますが。

いずれにしろ、今の人間にとっては
肉体的に老いて弱り、
病気になって死んでいく。
そういうサイクルのある世界観の中で
生きている事の方が、
何も考えずに済むし
簡単かつ楽なのだと思います。

むしろ、自分の生き死にについて
人類全員が自由に決める事が出来るようになった時、
人はもう、今現存する人とは
全く違う存在ななのでしょうし、
その域までもし達したとするなら、
そもそも肉体を持つ生命として
生まれる必然性が無くなるのです。

『病気をしてはじめて思う。
健康って有り難いね』

人類の認識の枠は
この範囲の中にあるのでしょう。


応援のクリックで
ご協力お願いいたします♪

にほんブログ村 音楽ブログ シンガーソングライターへ
にほんブログ村


「風は群青の空をそよぐ」
2013年5月25日発売!

・歌詞カード付きCD-ROM(限定)の購入は

コチラ←


夏のカケラ on Radio たまにTVでは
ご紹介するお便りを随時募集しております。
完全匿名制ですので、お気軽にお便りを下さい!


お便りはこちら!


コメントを残す