愛情は偏在する

人が恋をするという現象には、
ある一定の原理と言うか
法則があるような気がします。

学術的には例えば、
生物学だとか、心理学などでも
説明はされていますし、
それは間違いなく正しいとは思います。

ただ今回は僕なりのアプローチで
ちょっと、この恋に落ちるという現象を
考察してみようと思います。

いささか夢の無い話かも知れませんが
とりあえず結論を言うと、
『ある一定の人』と出会ってその人を好きになる
という心理的な感情は、
およそ錯覚なのだろうという事。

にわかには受け入れ難いですが、
話の筋道を整理すると
どうもそうであるとしか言いようが無いです。

何故か。

その好きになるであろう「一定の人」というのは、
単なるきっかけに過ぎないのだと思うのです。
きっかけというのは様々、千差万別にあるのですが、
要するにその好きになった人というのは、
自分の中にある「愛する気持ち」を引き出す人なのです。
それを人は「恋する」と呼ぶのですが、
その本質というものには実のところ
当の相手が占める割合は意外と少ないのです。
恋する想いを構成するほとんどは
「自分がその人に対して、こうした、こうでありたい」
という願望で占められるのです。

往々にして恋心というものは
相手の事情は不在であり、
いかなる場合においても
自分の欲求なのです。

ならばそれは所詮、願望であるのだから
そういう恋心は否定すべきかと言えば
それはむしろ逆で、
恋する相手を通して
こうありたいという想いが
良い方向に昇華されれば、
それは人生の中でもっとも
精神を成長させる絶好の機会となるのです。

あくまでも、恋の中にあるものは
「その人の愛する自分」なのです。

ここで間違えていけないのは、
「あの人が自分を愛する気持ちにさせてくれる」と
考えてしまう事です。
これは間違いであろうし、
大抵こう考えてしまう恋心というのは
得てして破れるもの。

前述のように簡単に言ってしまえば
恋心というものは「自分の欲求」なのですから、
相手の状況や環境、心情が
自分の欲求とマッチしている期間は上手くいくかも知れませんが、
互いの要求にずれが生じた時、
その関係は壊れてしまう危機を迎えるでしょう。

勘の良い人はここで気づくところがあるかも知れませんが、
そうです。これは
一種の依存、共依存であって、
真の恋心や愛情とは似て非なる関係構造なのです。

恋愛に関して非常に重要な事は、
何かしらのきっかけで
恋をする相手に出会ったとしても、
『その相手が愛をくれるとは思わない事』です。

結果や現状がどうであれ
『愛する事』こそが重要であり、本質で、
その対象となる人と
仮に会えなくなろうが、叶わぬ想いであろうが、
それはさして重要ではないのです。

間違いなくそこに、その心にあるものは
『自分が愛する』という気持ちなのです。

人は誰かを好きになると、
その好きな人があたかも
恋する気持ちを与えてくれるように感じ、
それが実像だと思いがちですが、
そこに相手がいるようで、いないのが
恋なのです。

人は出会いと別れを繰り返しますが、
その根底にある実像というのは
自分の中の愛情の増減の波であり、
人生の中で特定の条件を満たした時などに
その波を大きく引き出してくれる人に
現れるのだろうと思うのです。

仕組みとしては、
おそらくまず自分の中の愛情が育つ時から起因して、
それが正しい発露の仕方を続け、増幅されていくと
いずれどこかで、それを具体的に認識させてくれる人、
つまり恋する人が必然的に現れるのだと思います。

つまり、恋したその人と出会ったのは
一見偶然のようで、実は必然で、
自分の中の愛情に呼応して
出会うべくして出会った人であると言えるのでしょう。

そして愛する想いは
常に偏在するのでしょう。


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