テクノロジーは征服する道具にあらず

ノーベル賞が話題ですが、
やはり日本人がこの賞をとるという事は
日本人として誇らしいと強く感じます。

日本の文学者もノーベル賞をとったりしますが、
やはり日本では科学の分野で
科学者などのいわゆる理系の人がとる事が多い賞です。

ここでひとつ、心象を切り分けなければならないと思います。

賞をとるような科学者、
その人のその能力によって
「たまたま」理学系の分野から業績を残した人が
多くの受賞者が出てきたという
ひとつの事実があるだけで、
これを一般的な通念に適応は出来ないという事。

なにかと世俗では
頭の良さと言われると、
理系>文系という差別化をしがちですが、
これは正しくないです。

理系だとか文系というのは
あくまで、思考パターンの特性とでも言えるでしょうか。
単なる向き不向きの問題に過ぎず、
これらの価値はまず大前提として
等価であらなければならないのです。

言葉は悪いですが、
理系だろうが文系だろうが、
馬鹿は馬鹿です。
それどころか
下手な浅知恵の屁理屈をこねて何もしない人より、
「自分は不器用ですから・・・」と
自身の体力を使って
黙々と人の住む家を建てる人の方が
人としてはよほど尊いのです。

功績を残した人にたまたま理学系の人が多いだけで、
それをして理系を安易に偏重するのは
あまりに短絡過ぎるのです。

日本人はとかくエンジニアリング系の分野については
世界でトップと勘違いしているかも知れませんが、
いや事実、日本で発明された技術が
世の中の様々な機器の中で活かされている事は認めます。
しかし、では実際に世界的にみて
日本のブランドというのは凋落してしまっています。

実存的なテクノロジーを開発するのは得意なのでしょうが、
それを使って何をするかという点において
日本人の想像力は貧相です。
この力の欠如が日本の産業の没落の
要因のひとつではないかと思うのです。

テクノロジーを駆使して
不可能を可能にさせる事自体には
それほど重要性は無いのでしょう。
これが至高の目的ではないのです。
不可能が可能になる事は
過程に過ぎないのです。

結局はいかに多くの人に
快適と喜んでもらえるか、
ここが最終地点だと思うのです。
実は世界的規模にまで成長した
日本の大会社のそもそもの
動機と言うか、イデオロギーには
それがあったのです。
だから、戦後の日本は
奇跡的なスピードで復興できたのだと思います。

いや、とてつもなく復興した事は
日本人にとって不幸な事だったのかも知れません。
急成長によって日本人は
功利主義に走ってしまったのだから。

産業や組織は論理とデータで
システマチックに拡大できると
勘違いをしてしまったのです。

この辺りに日本の理系偏重主義の
影があるように感じます。

日本の凋落は
理系偏重で、そちら側の特性の人間を
増やしすぎて、
あるいは風潮として
そちらに舵を切らざるを得なくなるような
生き方を強いた事によって
バランスを崩した結果だと思います。

思います。
日本人は戦後、
あまりに目に見えるものだけを
追いかけすぎたと。

その目に見えるものすらも
実は虚像に過ぎなかった分かった時、
故に手元には何も残らなかったのでしょう。

僕からすれば今の日本人、
と言うか人間にとって、
理系指向は人をより強欲かつ傲慢にさせる、
毒にしかならないと考えるのですが。

そう考えると、やはり理学系の分野において
ノーベル賞をとる人というのは
毒の中にあって薬となり得た人なのかもしれないと感じます。


応援のクリックで
ご協力お願いいたします♪

にほんブログ村 音楽ブログ シンガーソングライターへ
にほんブログ村


「風は群青の空をそよぐ」
2013年5月25日発売!

・歌詞カード付きCD-ROM(限定)の購入は

コチラ←


夏のカケラ on Radio たまにTVでは
ご紹介するお便りを随時募集しております。
完全匿名制ですので、お気軽にお便りを下さい!


お便りはこちら!