頭の良い人とは知能の高い人にあらず

およそ俗に一般的に
「頭の良い人」と言うと
まず知能の高い人という人物像を
多くの人が浮かべると思います。
さらに日本人の場合、よりそこから下衆になると、
その知能とは理数的情報の処理の高さの事を指すのだと
信じている人も多かったりします。

確かに、そうした知能的な能力の高さは
頭の良さを推し量る要素として
あるにはある事は認めます。

ただ、人が生活するこの構造を生きる時、
こと現代のそれの中で生きていて、
それこそIQ(知能指数)で高スコアを獲得したとしても、
社会の中で「過ち」となりうるのは
ごく普通に散見されます。

こういう言い方をすると分かりにくいですが
平たく簡潔に言うなら、
世の中、勉強のできる人だって
人間が出来ていない人なんて、ごまんといるじゃない?
という話です。

少なくとも戦後の日本では、
勉強ができる事が功徳の一つであるかのように
思ってきたし、
そういう価値観で育った子供たちもまた、
その刷り込みを持ったまま育ち、
そして子を産み育ててきたのだと思います。

勉強ができる事、それ自体は当然良い事だし、
事実として頭の良いとされる
『ひとつの』要素である事は間違いありませんが、
そこだけ磨いたところで、
実社会で「君、頭良いね」とは言われないのです。

その根本的な実態、いわば矛盾とも言えるこの事実を
戦後の日本の教育はひた隠しにして
子供に暗記させてきたのかも知れません。

幼少期から青春時代にかけて
たくさんの事を暗記してテストに合格することで、
安定した仕事に就いて、一生安泰という
人生モデルがすでに破綻してしまっている以上、
むしろ学ぶ事自体が
「囲い込み式」の社会の中に取り入るための
スキルとなり、かえって
本当の叡智から個性を遠ざけてしまっているような気がします。

そうなってくると、
勉強できる事のみが「賢さ」の指標であるという
何となく社会に蔓延している観念に
いろいろと矛盾が生じてくるのでしょう。

勉強ができるという事は、単なる現れの一つにしか過ぎないのです。

運動能力の高さは、その基底となる
身体能力、体力があって成り立つものであるように、
知能の高さもまた、その礎に
その知能をいかように使う事で
どのような結果が予測できるのだろうかと考える事の出来る
想像力がしかるべく育っていないと
思想の無い知能は
逆に人の道を誤らせる害悪となり得るのです。


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