閉塞する哲学(改)

先日、哲学書と呼ばれるものの
閉塞性について触れましたが、
なにぶん
アルバム制作の片手間に
書きなぐったもので、
上手くフォローアップ出来ない部分があったので、
補足の意味も兼ねて
もう少し詳しく語ってみたいと思います。
前回の記事の論点を簡潔に述べるなら
要はこういう事です。
みんな(この場合哲学を語る人)、
サルトルだのニーチェだの
その他諸々の名だたる哲学者の思想を
引き合いに出して語るけれど、
それ自分の言った事じゃないでしょ?
自分の思想は何処へ行ったの?
という事です。
仏教のお坊さんがどれだけ
響く説法を説いても所詮、
釈迦にはなれないし、
どれだけ完璧に
クイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」を
唄いきっても、
フレディー・マーキュリーにはなれないのです。
これ、世の理。
じゃあ、既成の思想を解体して
自由な発想で
「生きる意味」「存在する事」
「精神とは」「幸福とは」
あらゆる事を
自分なりに規定して、
哲学を再構築しようとすると、
そこに「論理性」が欠けるだの、
宗教じみているだのと、
そういう目で見るんでしょ。
そういう目で見られたくないから、
「ボヘミアン・ラプソディーを唄ってみた」的な
姿勢でしか物を語れなくなってくるよ。
というのが前回の記事の肝なんです。
そもそも、人の精神活動自体に
整合性を求める事自体が、
もはや起点の部分で方向性を誤っていると思うのです。
人の心は、理に適ってなくても
言わずもがなな部分なんて
たくさんあるわけで。
人が思う以上に
人の心、精神は
整合性を持っていないのです。
その事実をダイレクトに、
既存の体系付けられた
思想という呪縛に臆する事無く
オリジナルな「我思う」を
言えた人がやはり凄いと思うのです。
腐敗したユダヤ教の支配構造に否を唱えて
教えを再構築したイエスは、
その社会構造の中でそれが出来たから
キリスト足り得たのです。
そんなキリストの教えも
かつてのユダヤ教のように、
搾取するもの、されるものという
関係にまで堕ちてしまって、
酷い事に堕ちてしまった事すら気づかずに
思想に縛られて生きる事に
何の疑問も持たなくなった人々の中で、
「いい加減キリストは捨てろ」と言えたから
ニーチェは偉かったのです。
実のところ思想の変革は
思想の枠の外で起きるのです。
だからイノベーション足り得るのも必然です。
枠の中で考えても
同じ思想と言う「解」しか返ってこない。
だから僕は、
習慣性をもつその思想構造を
一度自分なりに解体して、
「自分の言葉」として
「自分の答え」を説いてごらん、
と言いたかったのです。
何にも縛られなくなった精神は、
あるがままであろうとします。
そのあるがままの感触を、
その自分の個人体験としての感触を
もっと信用し、信頼し、
そして大切にしたら良いのではないか、
と言いたかったのです。
そんな訳で僕はそうした結果として
今僕に言える事と言えば、
「四の五の言わずに生きる事を愛せよ」
という答えに至ったんだよ。
じゃあ、君は何を感じた?
これを哲学と呼んではいけないの?
と、前回の記事では言いたかったのです。
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