「ありがとう」の概念、実は深い

「ありがとう」が言える人間関係。

これは非常に重要かつ、
人間関係の本質なのだろうと
最近感じます。

以前も書きましたが、
「ありがとう」という言葉は
自分には言う事が出来ません。

人がいてはじめて
「ありがとう」という状況が成立するのです。

故に「ありがとう」と
言えない、言わないのなら
人間関係など必要が無くなるのです。

そして僕のように
気付けば人から遠ざかってしまい、
やがて周りに誰もいなくなる。

これは本当にもったいない事だったと
ひしひしと感じます。

確かに人は
人生のある時期に
「孤独」となり自分を見つめ
自戒する期間は必要かと思います。
孤独の中に身を置いて
得る物は確かに多いですが、
得た物を活かすには
結局また人の輪の中へ
戻っていかなければならないのでしょう。

自分を見つめ、人とあり
さらにまた自分を見つめるという
サイクルの、ひとつの到達点こそが
「ありがとう。のある人間関係の構築」
という課題なのだと思います。

こうして書くと至極当たり前の事の様で、
実際にこの「ありがとう。と言える人間関係」を
純粋に実践して生活している人は
非常に少ないように感じます。

人間、自分の事でいっぱいいっぱいになると
人の事まで気が及ばないし、
まして気を楽にして「ありがとう」など
何故に言えようかという
状況に直面する事もあります。

それでも「ありがとう」の本質を知らない人は
やはり、本当に孤独なのだと思います。
実際にそれをこの目で見て、
自ら体験した僕が言うのだから
間違いないです。

しかしいつまでも、
「ありがとう」を言えないまま
一生を終えるのは良くないと思うのです。

まして「ありがとう」の本質を
知ってしまったのならなおの事。

自らがすすんで
「ありがとう」の言える状況を
創り出していこうとする努力を
惜しんではいけないのだと思います。

そうやすやすと
「ありがとう」と言えるような
シチュエーションなど生じないと
考える人もいるかもしれませんが、
実はそれほど難しく考えるような事では
無いのだと思います。

それは単に、
自分が他者に対してどれだけ心を開いているか
という次元の話なのでしょう。

心を開けば開くほど、
実は人との間の中に
「ありがとう」はいくらでも存在するものです。

だから「ありがとう」が少ない人は
その分だけ心の窓を閉ざして
狭くしている。
狭いから「ありがとう」が見えない
という悪循環に陥っているのだと思うのです。

たくさんの物を受け取りたいと考えるなら、
その受け皿となる心を広くしなければ
そこには何も入ってきません。
しかし、広ければ広いだけ入ってくる。

それが「ありがとう」なのでしょう。

心を閉ざしていては
「ありがとう」というシチュエーションを
体験出来ないのは
当たり前の事のように思えます。

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