成長する思想

僕が「フロソフィ」という
テーマで綴った様々な言葉たち。
このコーナーは今後も続くでしょうが、
最近、以前の「フィロソフィ」の内容と
少し趣きが変わってきたように感じます。
何と言うか以前は、
特に病んでいた頃に綴られたものたちは、
『いかに人は「苦」と対峙するか』
そういう視点で語っていたように思えます。
もちろんそれは、僕自身が
非常に精神的に苦痛な状態を長く
体験してきたからこそ
出てきた言葉でもあったのでしょう。
けれど最近は、
あえて対峙しようとしてきた
「苦」をも人生の中の
肯定的なものであるという事を
前提として語っている気がします。
そしてそれらはまた、
個としての内的体験という範囲の中に
収まっていました。
しかし今は、
その内的世界を通り越し、
そこを突き抜けて
見えてきた外的世界を統合する事によって、
僕という世界が
他者との世界との相対的な関わりを
持つということを理解したとでも言うのでしょうか。
早い話が、
内向的に「個」を突き詰めた先に
関わらずにはいられない
他者の存在が必要であることを悟った
という事でしょうか。
要するに、
内へ向かう精神性の極性が先端まで振れ、
外へ向かう精神性の極の方向へ
向かいはじめたのでしょう。
そうしたベクトルが全く逆の
精神世界から見える景色では
「苦」というものは所詮、
自分の心の選択に過ぎないのだと気付きました。
あなたがいて僕がいる。
その時に僕は何も偽らざる自分であれば
「苦」以外の可能性、選択肢も
無限にあるし、
それこそが「精神の自由」という
絶対性を持つ概念だったのではないかと、
そのような答えに行き着いたのです。
「精神の自由」を行使するなら、
「苦」以外のもの、それは真逆のものでも同様に
それまで「苦」と対峙してきたような事を
同等に対峙出来る可能性の示唆でもあると思うのです。
そこまで行き着くと、
「苦」は実体験ではなく
完全にただの概念でしかなくなるのです。
「苦」とはただの自己が規定するところの
概念に過ぎない事を悟ってしまうと、
もうどうやっても
「苦」に実体があるとは考えられないのです。
もちろん、それは「苦」に限った事ではなく
人生、生きていれば必ず湧き起こる
喜怒哀楽、すべての事に言える事でもあるのでしょう。
ただただ、
自身の中の「それ」についての概念を
再確認しているだけに過ぎない。
これは決して、精神性が
クールになったり
ドライになったりという次元の話ではなく、
あらゆる物事を「是」となすという
精神性の副産物なのだと思います。
いずれにしろ、
「苦」にもがき続け、問い続けてきた
あの頃とは
明らかに世界が違うのです。
だから、語る事にも変化が起こるのでしょう。
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