何故、作品に愛が要求されるのか

今回のアルバムには
全トラックにわたり、
馬鹿正直に
本当に愛を込めて唄い、演奏しました。
これは
単なる青臭い感情論ではなく、
一種の制作哲学と言っても良いでしょうか。
僕はそこに到達したと思っています。
では、何故「愛」なのでしょうか。
楽曲に愛を込める理由を知るには、
「愛」そのものの本質を
理解する必要があると思います。
「愛」とは
精神の発現であり、
その発現の最も原初たる
「ただあるがまま、偽らざる自身」という
方向付けされたエネルギーを
発する源であるのです。
僕は録音中、
ただただ「そこに在りました」
それ以外の事は何も考えていませんでした。
かと言って、
「無心」とも違います。
それはあらゆる自我を取り払った
純然たる僕自身の精神の
もっとも核となるものとして、
「ただそこに在った」のです。
そして、そこに「ただ在る」とき
内側から流れてくるエネルギーこそが
「愛」だったのです。
別に他のものでも良かったのでしょうが、
それは確かに「愛」でした。
今回の録音では
僕の出来うる限りの集中力をもって、
ひたすら「自我の欲する物」を
排除しました。
そうする事で、作品の持つ意志が
ダイレクトに音になりやすいのです。
僕はここを狙ったし、
実際この狙いは的を射抜いたと感じました。
言わば僕は、
ラジオという機械に徹したのです。
あとは11曲の電波にチューニングを合わせ、
出来るだけノイズが乗らないように
その帯域を絞りました。
そうすると、
自分の精神と音楽とを繋ぐパイプの
通りがスムーズになるのです。
このパイプを流れるものこそが
「愛」であり「音楽」でした。
精神の発現の最も原初たる
表現を再現するには
「愛」というエネルギーが必要であり、
事実としてそれが出力されるのです。
音楽を制作するうえで
無駄になる感覚は一切排除し、
唯一、どの曲にも共通して
必要とされたのが「愛」だったのです。
どうも「音楽」というものは
「愛」から出来ているらしい。
そう考える時に湧き出てくるエネルギーの
強大さは喩えようの無いものです。
言葉では喩えられないから、
絵では喩えられないから、
それは音楽として顕われたのです。
いや、音楽という媒体もまた
「愛」のひとつの側面に過ぎないのでしょう。
きっと世界は、まだまだ見えない部分はあるものの
様々な「愛」で溢れかえっているのでしょう。
故に、作品を作るうえで
向かう方向性として
「愛」のある方向を目指すというのは、
必然にして理に適った方法なのではないかと
思うのです。
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