終活の意義

終活という言葉を最近、
たまに耳にし、目にしたりする事がありますが、
これは本当に大事な事なのだろうと
思うのです。
もちろん、一般的に「終活」と
いわれるものの定義を、
要するにざっくり簡単に言うなら
生きているうちに
自分の身辺整理はやっていて、
死後の自分の取り扱いの
手引書を作っておけよ、
というようなニュアンスと
僕は解釈しています。
ただ、もちろん
こうした自分の事にまつわる物事の
整理も大切です。
しかし、それよりも
その整理という行為を通して
自分は何人足り得たかを知る
という意味において
非常にそれは重要な事となってくるように
思うのです。
人間、
「死」を「終焉」と考えては
「生」に何の意味も捉えられないのです。
逆に言えば、
「生」の意味は
「死」という「結果」で推し量るもの、
そう考えないと
人の精神とその発現の存在理由に
根本的な矛盾が生まれるのです。
そもそも、
ただ有機物と無機物の変換をし
種の増殖と縮退の
周期性的質を持つエントロピーの
サイクルだけが
この世の運行を司る
唯一無二のものであるならば、
ヒトも他の動物と同じように
「精神」の必要など無いのです。
なのに何故、精神は現れるのか。
それは物理的なエネルギーの
変換のみ以外の何かしらに、
精神はこの世の摂理という
システムの一部として
機能しているからだと思うのです。
不要なものは淘汰される筈であるのに、
人類は1万年もの、または
それ以上の長きに渡り
精神を肉体に宿していきました。
故に精神は
この世界、この宇宙、この空間にとって
何かしらの必然があって
発現するのでしょう。
精神の発振は「死」によって
停止すると考えてしまうと、
「生」の途上にある時間は
何もかもが無意味な事と思えてしまいます。
いずれ止まり無に返ってしまうものを
何故、この世は何千、何万年と
残し続けているのでしょう。
消えるために、無くなるために
生まれ、存在し続ける道理は
この世にはないと思うのです。
「死」は停止であり
その先に何も無いのであれば、
「生」が存在する必要はないし、
存在理由の無い「生」に
「死」という事象が起こる事も、
それを説明するには
実に奇妙な話です。
「生」と「死」の概念をもつ精神は、
生きる事に対しても、
死ぬ事に対しても、
そこに意味を探さずにはいられないのです。
先にも触れたように、
単に有機物と無機物の交換を繰り返すためだけに
その遺伝子をコピーし、
増え続けるのが
ヒトを含めた動物の
自然の中に於ける役割であるのなら、
そこに精神は必要ないのです。
それでも精神はあるし、
人は精神の存在から逃れる事は出来ない。
見ないようにする事は出来ても。
人は精神を持つが故に、
「死」というものに
各々が何かしらの意味や哲学を持っている。
「死」を知っているのが
精神なのでしょう。
「死」がひとつのサイクルの終末期であると
認識しているから、
それが訪れる前に人は何かを成そうとする。
いわば人は、
「死」を創造するために
「生」を体験しているのかもしれません。
それが「終活」の本質なのではないでしょうか。
割れたシャボン玉の中にあった空気は、
元の空気の中へ帰っていきます。
というか、空気という全体の中で
シャボン玉の皮膜に囲まれていた
空気があったというだけで、
空気全体の存在としては
本質的に何も変わらない。
人の精神は
このシャボン玉の割れる瞬間をもって、
それがひとつの「個」という
結果を見るのでしょう。
自らの「生」の評価は
自らが「生」の外側に出て
はじめて可能なのではないでしょうか。
「生」の外側、つまり
「死後」という領域で
自身の成した事を評価するために、
人はその身体を纏って「生」を
生きなければいけない。
人は生きている間に
幸不幸だの、成功や失敗だのと
結論付けてしまいがちですが、
本当の人生の評価など
死んだ後にならなければ分からない。
なぜなら、未来は不確定であり
「生」はその不確定な未来を
ひとつづつ確定させていく作業の
繰り返しなのだから。
けれど未来は無限に広がっているから
どこかで区切りを付けなければいけない。
だから「生」と「死」のある
この世界が必要なのでしょう。
胸を張って「死」に臨める人は
きっとヒトという種にとって
理想の役割を全うした人なのかも知れませんし、
そこが最終地点という前提で
終活は意味を持つのでしょう。
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