偽リア充、イマ充という概念の提案

「リア充」という言葉が生まれて
ひさしいです。

僕の中でいうところの
「リア充」という人の定義は、
充実した広い人間関係に恵まれ、
そこから連鎖するように
仕事や学業なども
そつなくこなして生きている人、
と解釈しています。

まあ、だいたい
一般的にも遠からず近からず
そのようなニュアンスの状態の人の事を
「リア充」と言っているように思えます。

今回はあくまで、「リア充」を
そう定義したうえでのお話となりますが、
僕が思うに
そうした一見「リア充」と言えるような
人たちの本質に空洞を感じてしまうのです。

まあそれは
僕が多分、社会的には「非リア充」に
属している側の人間と
評価される人であるが故の、
ある種のルサンチマンと言ってしまえば
それまでなのかも知れませんが、
それでもあえて
今一度「リア充」の状態を
じっくり考察してみようと思うのです。

「リア充(あくまで僕が考える)」の人は、
仕事や勉強も順調で、
友達もたくさんいて、
休日は友達と楽しく過ごす。

それは結構な事です。
それ自体は何も悪くはないし
むしろ良い事でしょう。

しかしです。

そういう環境に充足する事に
依存してしまっていては、
それは果たして「リア充」なのですかと
問いたいのです。

仕事や勉強が上手くいっているから、
楽しい友達がたくさんいるから
自分は充実している。
という思考のロジックに
嵌ってしまっている時、
では
今の仕事が無くなったら?
学校やクラスが変わったら?
サークル活動が無くなってしまったら?
引っ越して友達がいなくなってしまったら?

その時、一転して
「リア充」では無くなりますよね。

ここに僕は「リア充」の
空虚さを感じるのです。

自身が充足を得るという力を
自分以外の外的環境に
明け渡している状態。
もしくは、その外的環境に置かれなければ
充足出来ないという、
依存、この場合いわゆる
「共依存の関係」に陥っていて、
人や条件に依存する事によって
「充実した現実」であると
錯覚しているのか、
思い込んでいるのか、
実のところひとつバランスを崩せば
一気に瓦解してしまう
脆い環境にあるように見えてしまうのです。

やはり人や条件などといった
外的要因によって
充足を得る事に慣れ、当たり前になってしまった時、
その梯子が外されると
一気に「リア充」の真逆の極性へと
反転してしまいます。
外的要素に依存した生き方、思考をしていれば
しているほどに。

大事なのはまず、
充実させているのは誰でもない、
「今の自分」である事を認識する事のように思えます。

自分を充足させしめるのは
あくまで自分であるという前提が無いと、
結局何処へ行っても
依存の構造から抜け出る事は出来ません。

一見「リア充」に見える人も
実はこの「共依存」に陥って
充足しているように思い込もうとしている人が
結構多いと考えます。

本当に「リア充」な人は
何処へ行っても、どんな環境に置かれても
その身の回りに充足感を見つけられます。
外的要因によって条件付けられた
「限定的な充足」に重きを置いているのではなく、
ただただ「自分」が満足している状態だから、
多少の条件が変わっても
「自身の充足」がぶれないものです。

故に、
共依存の関係を「リア充」と錯覚している人は
「偽(ぎ)リア充」という言葉で
定義して良いかもしれません。

そしてまた、真に「リア充」な人を
「イマ(今)充」と呼んでもいいでしょう。

とにかく、依存による錯覚とは
分けた方がいいと思うのです。

「イマ充」な人は、
仕事や学校、人間関係といった
外的世界に関係なく、
内的体験としての「充足」を知っている人ですから、
「リア充」の中に「偽リア充」が含まれるように
「非リア充」の中に意外と
「イマ充」な人が結構
紛れ込んでいたりするのかもしれません。

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