いのちに格差が生まれる日

今、女性が妊娠すると
お腹の中にいる胎児に障害が無いか
調べる事が出来るそうです。
そして、もし
障害のある兆候があった時、
大抵は中絶するそうです。
この検査にかかる費用は
20万円ほどだそうです。
上記のニュースには
とても重要なポイントがいくつもあります。
まずひとつは、
障害があると分かった胎児は
堕胎されてしまうという事。
そしてもうひとつは
この検査に費用がかかるという事。
この2点を軸に、
倫理的、哲学的な是か非かの論点が
あらゆる分野で派生していきます。
胎児に障害がある事が分かった時、
その胎児は堕胎されてしまうという事は、
そこに「命の選別」がなされているという事です。
障害がある場合、それを排除してしまうという事は
それ即ち、
既存の障害を持つ人の存在を否定する事を
肯定してしまう危険性をはらんでいますし、
そういう風潮、社会通念を
いたずらに育てる要因になると思うのです。
しかし、いざ
我が子に障害があると分かった時、
その子に障害を負わせた人生を歩ませられるか、
また、そうした子を
ともすれば一生面倒見ていかなければならない
覚悟を親は決められるか、
そう考えると
障害を持っているとされる胎児を
堕胎させる事も悪いとは決して言えないでしょう。
とは言え、我が子に障害を負わせた人生を
歩ませないために、
障害を持った人の存在を否定してしまっては
いけないでしょう。
障害を持つ人を肯定出来ていれば、
自分が障害を持つ子供の親となる事を、
そうした子供を育てていく事を
肯定出来る筈です。
けれど、いざ自分の身の事となると
それが出来ない。
誰でもそうだと思います。
それ故に難しいのです。
さらにもっと問題なのは、
この検査に費用がかかるという事。
お金を払って命を選別するとなると、
お金のない人は
その選別が出来ない事になります。
そうすると、
「あそこの家は貧乏だから
障害を抱えた子供がいる」
という、
新たな差別が生まれるのです。
あってはならない
「命の格差」が生まれるのです。
健康である事と命の尊さは
比例して語ってはなりません。
健康でない我が子を
だからと捨てる事が出来ないし、
捨ててしまうような
人間性をもつ子を育ててもいけない。
そう考えると、
身ごもった子供が
障害を持つ子供である事を
あらかじめ知ってしまう事は
いけないように思えるのですが、
それでも我が身に置き換えると
我が子に障害を持たせたまま
生まれてくる事を思うと、
やはりあらかじめ知っておいた方が
良いのかもしれない。
命の選別について、
肯定的な見地も
否定的な見地も
どちらも筋は通っているし、
そちらも悪ではないでしょう。
むしろ、
是も非も子を思う愛があるが故の
ものでこそという質の問題でしょう。
しかし、
こうした障害を持つ子供であるかを
知る事が出来る技術が生まれてしまった以上、
人間はこれをうまく扱う方法を
しっかり考えていかなければいけないのでしょう。
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