罰の連鎖

体罰というのは、
これは完全に人の業(ごう)のなせる業としか
言いようがないのかもしれません。
殴られて育った人は、
人を殴って育てようとします。
なぜなら、その人にとって
「人は殴って育つもの」という
刷り込みが心に刻まれてしまっているから。
これが負の連鎖なのでしょう。
連綿と続けられた「殴る教育」について、
それが過ちである事に気づき
その拳を収める事が出来れば、
彼に育てられた人は
その負の業を受け継ぐ事はありません。
これは体罰という行為だけの話ではありません。
いつも人を蔑む親に育った子は
人を蔑むようになります。
人の悪口を言ってばかりいる親に育った子は
人の悪口を言うようになります。
モラルの低い親に育った子もまた
モラルを知りません。
なぜならそうした事は、
育った子にとって
人とはそうしたものであるという
刷り込みがなされてしまっているから。
ただ、
その刷り込みは逃れられない鎖ではありません。
その鎖は、人を縛り付けるものではなく、
逆に、その人本人が
その鎖にしがみついているものなのでしょう。
故に、意を決すれば
いつでもその鎖を手放す事が出来る。
手放して捨て去る事が出来る。
業とはそういうものなのでしょう。
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