絶対認知論

赤い月を見て人は何を思うでしょうか。
一般的に月が赤みを帯びて見える時というのは、
月が低く、地平線に近い時に
太陽光が反射する中で赤い色の波長だけが、
言ってしまえば、はみ出て残って見えるために
そういう色になるのですが、
人によってはそれを
凶兆として怖れを抱いたりするかもしれません。
中世ヨーロッパでは
銀は魔除けとして使われたという
言い伝えもありますが、
抗生物質もワクチンも無い時代、
感染症は致命的ですらありました。
もしかすると当時のヨーロッパの人は、
銀の持つ殺菌作用を
経験的に知っていて、
銀の物を身につける事で
魔(感染症)から身を守ろうとしていたのかもしれません。
しかし、
赤い月を見て不吉に感じたり、
銀の物を身に付けて魔除けとしたり、
そうした事は果たして
簡単にただの無知ゆえの戯言と
片付けてしまって良いものなのでしょうか。
科学的根拠がどうであれ、
物理的作用がどうであれ、
その事象をいかに認知するかは個人の自由です。
自身の内的世界は
自身の認知した通りの世界を形成します。
そこに根拠や法則、立証といった
形而下の概念が入り込む余地は、
それを認めない限り全くないのです。
例えば悪い流行病を
悪魔の祟りだと怖れて神様に拝む人に対して、
どれだけ抗生物質やワクチンの
有用性を説いたところで、
その人がその事を納得しない限り
その人の内的世界では
悪魔の呪いが世界を被い尽くしたままなのです。
事実と認知は
別次元のものです。
そして人の精神構造は
事実よりも認知の方が先立ちます。
そこに一切のバイ菌が存在しないと
教えられたところで、
その泥水を飲めるでしょうか。
つまりはそういう事なのです。
立証によって規定された論拠は
時が経つ中で簡単に覆りますが、
人の内的世界で経験的に認知されたものは
本人がその認知を変えない限り
いつまでもその人の現実であり続けます。
人類の文化の本質というものは、
立証によって規定される論拠としての事実より、
むしろそうした
内的世界の認知の方こそが骨格となっているものです。
だから科学的に神を証明出来なくても
人は神を信じる。
それが人類の文化なのです。
それが非論理的であり、
非科学的であろとも、
それでも世界は個々人の認知によって
形成されていくものなのです。
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