知識の限界点

知識というものは、
益となるものより
むしろ、弊害の方が多いように思えます。

知識は
無限を有限という枠の中に
押し込めてしまうからです。

人が会得できうる知識というものは、
本当にたかが知れているのでしょう。
氷山の一角のそのまた先端ほどの知識でも
持っていれば、世では知識人と言われますが、
それは世のほとんどの人は
自分の生きている世界というのは
大海に浮かぶ氷山の先端で
ひしめき合っているものであるという
自覚もないまま生涯を終えるのです。

知識を得たと自負し、それを語る人は
見えている部分、知覚できる部分、
認識できる部分、悟ることのできた部分だけを
知っている人なのであって、
氷山とそれを漂わせる大海の実像全てを
全く矛盾させずに説明のできる人などいません。

故に、知識を持つ人が何かを語ったとしても
「けれど」という接頭辞をもって
至らず、未だ知りえない部分まで
さらけ出さなければならなくなるのでしょう。

人間はその「けれど」という
背反するものを
なおざりにし続けて、
それでも知識は尊いと言いますが、
相対し、背反する物事の釣り合いの解を
導き出せないうちは、
どれだけ難しい学問であろうが
人の益となる叡智とはなろうはずがありません。

こうした観念が人の心を支配し続ける限り、
人は科学を進化させ、
産業を発展させ、
人類の利益のためにと
様々なものを生むために、
一定の規律を
学問という序列で区切って、
その上流を尊ぶのです。

しかし、そのことで
貧富の格差、人格の貴賎、
力の強弱がもたらす影の部分は
「無いもの」として
光の当たる人たちに都合よく
世界は組み替えられていきます。

人が会得した「知識」は
かように使われ、その結果がこの世界なのです。

はっきりさせるために言うならば、
『知識は人を救わない』
ということです。
生み出したのは
勝者と敗者、あるいは
強者と弱者だけなのです。

「知識」はここで
優性論や淘汰の概念を持ち出すのでしょうが、
それこそが人をさらに
下等たらしめていくのではないかと考えたりもします。

「人の知識によって選り分けられる優性」は
自然の理の淘汰とは
性質が全く異なるからです。

人が知識をもってそれを扱わせると、
淘汰とは言わないのです。
駆逐です。

癌細胞やウイルスが
人間の細胞を食い殺していくのと
同じ本質の振る舞いなのだと思えます。

所詮、人間の知識というものは
ごくごく限られた範疇で
無理やりに整合性を繕った
「エゴの法」であることがほとんどなのだから、
全ての人が救えないのでしょう。

ここが「知識の限界点」だと感じます。