依存と共存

自分と社会の関わり合いの中において、
自立と依存、そして共存という概念というか
軸というものは非常に重要な要素だと思えます。

もちろん、人はいつかは
自立して生きていかなければなりません。
そして、自立するには
社会、あるいは自分よりも外側の世界と
関わらなくてはなりません。

つまり、自立するうえで
自分は社会と共存して生きていくのか、
あるいは
社会に依存して生きていくのか、
この両者では生き方は大きく変わります。

社会に依存してしまう生き方というのは、
いわば主体が自分にない生き方なのだと思います。

自身の存在の意義を他者、社会に明け渡すことで
集団の持つ奔流の力に
流されながら生きることなのでしょう。

依存して、流されることを許していられるうちは
非常に楽な生き方とも言えるかもしれません。

全てにおいて、つまり
自分の身に起こるあらゆることにおいて
その責任を人に任せて、
自分の気にいる奔流を見つけて
流れていけばいいだけなのだから。

一方で、
社会と共存する生き方というものもあります。

それは自分の信じることを
自分の拠り所としながらも、
それが社会的な要求と合致する生き方です。

こうやって生きていける人は
実は稀有ですし、また
こうして生きていけるようになるのは
難しいことなのだと思います。

自分が良かれと思うことを
他の誰もが受け入れてくれることはないし、
そこを受け入れられるようにする労苦を思えば、
集団の持つ奔流に流されてしまう方が
いかに楽であるかが分かります。

しかし、
本当の自分であることと
社会のニーズが合致した時は、
至上の喜びを得ることができるでしょうし、
そのたどり着いた場所というものは
ともすれば、
集団の奔流の上流、中心により近い
場所であるかもしれません。

社会というものは、
集団意識の集合体であり、
かつ最小公倍数でまとまった
投影でもあります。

そしてその意識の最小公倍数は、
あくまでも
「全」であり「個」ではありません。

「個」に相対するものとして「全」があるわけで、
ここを混同することで、
「個の人生」やその集合たる「社会」が
どんどん複雑かつ奇妙なものになっていくのです。

多くの人が
『社会の中に自分がいる』と
思い込んでいますが、
それは幻想だと思うのです。

真理は
『社会と、それに向き合う自分がいる』
というものです。

社会と個は、
本質的に分離していて然るべきだと思うのです。

これを分離させておかないと、
やがて全体主義に傾倒し
社会や国家は暴走するのです。

故に人は、
社会に依存してはいけないのです。

社会という集団意識に
主体を明け渡すということは、
個をスポイルすることなのです。

「個」を生きられないと
人の心は必ずどこかでその
帳尻を合わせるための
歪みが生じます。

集団という奔流によって
まるで回転寿司のように
流れて生きていく生き方は、
やがてその渦の穴に吸い込まれるように
落ちていくのです。

集団の奔流はある種の重力を持つ
地場のようなもので、
その重力に捉えられると
そこから抜け出すことが難しくなるのです。

流されるほどに
引力の強い地場の中心へ近づき、
もう自力どころか、
他者の力を持ってしても
抜け出ることはできないと思います。

これが社会への依存。

社会に対して、
依存から共存に意識を変えていく時、
もしかするとそれは
ある種の厭世感を伴うかもしれませんが、
実はその感じ方の方が
フラットな感じ方だと思うのです。

抜けられないほどの穴に吸い込まれていくことに
抵抗感を覚えない方が異常だと思います。

社会という重力に対して、
その引力に捉えられないように
自分の位置を把握できることが
社会との共存の第一歩かもしれません。

そのためには、
「社会」と「自分」は
等価に釣り合うのだということを
よくよく忘れてはならないのだろうと思います。

しかし社会の奔流という重力は時に、
強制力を行使してでも
自分を重力下に置こうとするでしょう。

争うべきは、この
『社会の重力に屈しろ』という
無言の声なのだと思います。