未だ「男性」を解放できない人類

世の男性は、
「男はこうあるべき」という
固定概念から抜け出すのは
とても難しいことだと思います。

その点、女性の
「女はこうあるべき」という
それからは、現代の女性は
解放されつつあるのだと思います。

それから考えれば、
男性のそれ、つまりパターナリズムなのですが、
これは男性自身の観念で縛っていることに加えて、
女性もまた、未だに
「男子はこうあるべき」という幻想を
男性に押し付けている面も
多々あるような気がします。

女性は、足かせのようになっていた
自分の「性」のパターナリズムからは逃れつつも、
ならば男性には何を求めているかといえば、
結局、ガチガチに凝り固まった
「男性像」だったりします。

まあ、往々にしてという話ですが。

女性が古来よりの「女性像」を
捨て去って、より自分自身の本質を
生きていこうとしている中、
「男性像」は未だに
女性はもとより、男性ですら
解放できていないのが実情なのだと思えます。

本質的にもつジェンダーに対する
パターナリズムからの解放、
そしてそれから解放された世界というものは、
男性だけ、あるいは女性だけでは
完成できないと感じます。

手厳しい言い方になりますが、
現代の「女性の自由」は
決して「女性性の解放」ではないのだということ。
その実は「女性性の放棄」に近いかもしれません。

むしろ、女性自身も気づかないうちに
女性性のメンタリティが
男性性のパターナリズムに侵食され、
狡猾に男性論理の上位を奪おうとするその様は、
結局、未だ男性論理を基盤として
男性も女性も生きているが故に起こりうる
現象ではないかと思えます。

もちろん、ここでいう男性論理とは
「男性像」であると同時に
社会を生きる人間の
メンタリティの礎です。

そしてその価値観によって成り立つ
この社会もまた「男性」なのです。

女性がいない。

正確に言うならもしかすると、
女性も「男性にならなければならない」
そういう世の中なのでしょう。

一体、誰が女性の役割をするのでしょう。

女性は全くもって
自由にはなっていないのです。

「女性らしさ」をいくら広げようとも、
「男性性」が解放されなければ
「女性らしく」生きることはできないと感じます。

本当に束縛され、閉じ込められて
動けなくなっているのは
「男性性」です。

もっとも、
世の中全て「男性性」で事足りると
勘違いをした男性に
ツケが回ってきているとも言えるのですが、
いずれにしろ、
男性にとっても、女性にとっても
「男子たるもの」という
固定観念を解体しない限り、
女性もまた
男性性という苦しい檻の中で
生きる選択をしなければならないのです。

男性と女性の役割の在り方の本質は、
まず現状のジェンダーに対する
パターナリズムの解放なくして
実践どころか、考察すらできないように思えます。