アニミズム回帰

この世のあらゆる物質は
原子(と分子など)によって
形作られています。

それは例えば、
人の肉体もそうですし、
原子によって形作られた肉体が手にして
この文章を読むための機器であるところの
スマホやパソコンもまた
原子でできています。

この街も、この世界も、
雲も山も川も、
そして呼吸する空気さえも、
密度や「形」こそ違えど
全てが原子の連なりなのです。

究極的な意味に於いては、
自分の肉体も
その肉体の手にとって眺めている
スマホも、
原子から組み立てられている
同質のものであり、同様ものであるのです。

ならば、
肉体が自分のものであるのなら、
まあ自分のスマホはともあれ、
例えば山や森、川の水は
自分のものでしょうか。

そうではないです。

自分はたまたま、何かしらの原因があって
「自分の肉体」という
原子の構造物を
さも自分であるかのように
「意識」していますが、
全体からすれば
単に原子の濃淡のある特定の一点に過ぎず、
少なくとも
原子の構造物たる肉体の中に
存在していると思い込んでいる
「自分」の所有物として
物質、あるいは「もの」が
存在しているわけではないのです。

むしろ、自分が認識するところの
「自分の存在」こそが
原子の海の中に浮かぶ
泡の一つに過ぎないのでしょう。

海になぞらえるのであれば、
誰も彼も、何もかもが
「海という全体」であり、
周囲を見回して展開されるその光景もまた
「単なる全体たるところの海」なのです。

そして、誰もが、どれもが
原子の海に揺らいだ
波のひとたちに過ぎないのです。

これは別に形而上の話ではなく
物理の世界観に近いことなのですが、
こうした普遍的な真理も
どういうわけか人の住む世界では
歪曲してしまうものだったりします。

原始的で旧いものとされた
アニミズムの構造がそこにあるのに、
現象と自分を切り離して考えてしまえば
生きていて、どこかしこに
矛盾が生まれるのも至極当然のことなのでしょう。

そして、自然の理を捻じ曲げた
その捻じれの中心に
「宗教」があると感じます。

「宗教」は
人の心の歪みの投影なのでしょう。

人生の歪みから解放されたくて
その中に身(心)を投じたところで、
余計にそれは歪んだ狭窄の中で
がんじがらめになって動けなくなるだけです。

人がより自由であるには
アニミズム的視野で
物事を考える必要があるように思えます。

そこは、何もかもが均等な場所です。

どんな意味づけさえも
等価の価値を持ちうる世界。

全てが信仰の対象であると同時に、
全てが信仰の対象から除外される世界。

これが最も理にかなった
世界の在り方のように思えるのです。