真実と嘘の構造

昨日の話の続きとして
読んでいただければと思います。

そしてこれだけは言えます。

世の中、大抵の本当のことは
表に出てこない。
というか、
嘘は表に出やすいということ。

それはなぜか。

偽りを真実であると思わせること、
つまり嘘は
『本当は真実でないのに
真実だとアピールする必要がある』のです。

周りにそうだとアピールしないと、
それで然りと
誰も思ってくれないから。

わかりやすく喩えるなら「善人」

自分がさも善人であることを
アピールする人というのは、
善人でないのにも拘らず
理由な何であろうとも
善人と思われたいのです。

けれど、本質が善人ではないから
そのまま何もしないでいても
誰も善人と呼んではくれません。
だから自分から
善人であることを人に知らしめなくては
いけなくなります。

本当の善人というのは、
わざわざアピールしなくても
その存在、それがあるままで
自ずと善行となるのだから、
いちいち人に知らしめる必要はないのです。

ここで昨日の話に戻るのですが、
伝えたいことが本当に
ちゃんと伝えられる人ならば、
「これを伝えたいんです!」などと
わざわざ言う必要はないのです。

まして音楽などの表現を媒介として
何かを伝えるのならなおのことです。
「伝えたいんです!」というそれを
作品として伝えるべきなのです。
「伝えたいんです!」という
キャッピコピーは不要です。

そして裏を返せば、
作品で表現できなかった物事を
補完するために
「これを伝えたいんです」というならば、
そういう人の作品は
完全ではないことの証明となります。

完全ではないから、
完全であることを知らしめるための
方便が必要になるのです。

これが表現活動も然り、
人の生き方の中に生じる
「嘘」の実態なのです。

何もかもあけすけに、
やましいことなく暮らしているのであれば、
その生き方は完全なものでしょう。

けれど人間、
その心や振る舞いに
ほつれや穴があるから、
それを隠すための嘘をつかなくてはならなくなる。

本当は嘘を抱えて生きることの方が
地獄なのです。

一見、煌びやかで華やかに見えるそれも、
もしそれが嘘によって作られたものであるならば、
その内側の景色は地獄なのです。

むしろ、内側が地獄だからこそ
外側で輝くとも言えるのでしょうが、
その嘘の輝きというのは
大抵がデフォルメされて大げさになり、
本物の輝きは
目立たなくなって、
結果として嘘は外、真実は内という
構造が出来てしまっているのかもしれません。