労働も消費である

よくよく考えてみれば、
労働も消費であるのだと最近気がつきました。

厳密に言えば
消費させるための消費。

給料を払う立場からすれば、
労働力というものは
お金で買っているわけですから、
これは消費なのです。

給料を払う立場の人たち、
この場合ここでは便宜上
「経営者」と呼ぶことにしますが、
経営者が労働者を消費することで、
労働者が潤い、労働者が消費することで
経営者が潤う。

これがそもそも資本主義の仕組みなわけですが、
ここではっきりさせておかなければならないのは
労働者というものはあくまで、
「経営者の奴隷ではない」ということ。

労働者は自分の力や時間を
経営者に売っているのだということは、
そもそも考えてみれば
至極当然のことではあるのですが、
現代の社会はこの部分を
見えにくくすることで
労働者の思考を停止さるような方向へと
流れていっているのが気にかかります。

そう遠くない将来、
今の末端の労働者の仕事は
ロボットに取って代わられていく時代が来るのは
もうSFの世界の話ではなくなってくるでしょう。

労働者は経営者に使われる部品の一つだという
潜在的、無意識の観念を捨てて、
自律的に社会と交わる術を身につけないと、
「人間の労働力の対価」は
無に等しいものとなってしまうと思います。

ヨーロッパなどでは
この構図がそれこそ100年も前からあって、
結局、資本主義の問題点は
ほとんど解決されていません。

それどころか、
アメリカ型の資本主義の暴走が、
さらに人の立場を二極化させてしまっています。

勢いの差こそあれ、
延々と自転車操業が続くのが資本主義で、
消費を前提としただから、
どんどん物が
無くなったり、あるいは
一箇所に集中して偏ったりするのは
当たり前なのです。

これを「競争」と呼んで
正当化されてしまっていますが、
冷静に考えてみれば
この「競争」がこの世を歪にさせる
元凶だということを
今一度、思い知った方がいいと思います。

「消費」は堕落につながる道だと
理解できるでしょうか。
欲求に縛られて
不必要な労働などする必要はないのです。
むしろ、「消費しない」のであれば
働かなくてもいいくらいに。

そもそも人の本来の仕事というものは、
自然の摂理に則り、均衡をもたらすものでなければ、
全てが「業」なのです。

先進国の誰もが
欲求の奴隷になっていると
気づいているでしょうか。