自分の音を持つ

自分ならではの音楽というものを
持っているということは、
すごく大事なことなのだろうなと
思っています。

それは、歳をとればとるほどに。

そもそもポピュラー音楽というものは
主に若い人のために向けられた音楽ですから
若いうちは、
似たり寄ったりの音楽をやっていても、
「若さの群像」というパワーで
なんとかなってしまうものです。

というか、はっきり言ってしまえば、
若い人のやる音楽というものの
最大の武器は「若さ」なのです。

僕もそうでしたし、
誰もがそこを通って
音楽性を磨いていくものなのです。

そしてやがて、30歳も半ばあたりになってくると
「若さ」が通用しなくなってくる時がきます。

その時、自分の音楽に
「若さ」を差し引いた何かがないと、
音楽というものは
おじさん、おばさんが
なんか遊びでやっているようにしか
見えなくなってしまうのです。

これが現実でしょうし、
僕もまた、ライブに出演しても
観ていく人はそのように
僕を見るのだと思います。

若さを武器にできず、
自分の音でも勝負できず、
となった時、
「じゃあ、楽しかった頃のコピーやってればいいじゃん」
というところから、
オヤジバンドが生まれるのでしょう。

もちろん、それはただ、
そういう選択肢があるというだけのことで
悪いことではないし、
肯定される論理こそあれ、
否定する根拠などありません。

ただ、そこには
好きな者同士が集まって
「サッカーやろうぜ」とか
「野球やろうぜ」という域からは
脱することはできないのも事実です。

音楽は歳をとるほどに
お前は何を聴いてきて
何を聴かせるのか、という問いに対して
今ここでそれを表現しなくてはならない、
そういうシチュエーションで
音楽を求められるのです。

そして、それを理解してくれる人というのは
ほとんどいないでしょう。
あるいは、果たして
それを理解されるだけの実力がともなわない
自分の未熟さもあることでしょう。

こうしてどんどん、孤立無援になっていこうが、
それでも自分の音楽を奏で続ける力は
きっと重い。

何にために音楽をやっているかさえ
分からなくなるはずです。
分からなくなるのは、
音楽に目的を求めなくなるからであり、
その時、
『真の自分の音楽』
である必然性が求められるのです。

おそらく、ここまで達すれば
もう、自分のやっていることに
疑問を持ったりして、
ブレることはなくなってくるのだと思います。

そのあとのことは僕にもわかりません。

結局、何もないまま
霞んでいくように死に絶えてしまうのか、
あるいは、
誰かの心をその音楽が震えさせるのか、
そういう結果などどうでもよくなった時、
自分という魂は
音楽を超えることができるようになるのかもしれません。