「おかげさま」という宗教

可愛くない物言いなのでしょうが、
よく「おかげさまで生かされているんだよ」的な
ことを言って、日々感謝して生きましょう
という精神論で語られることがあるのですが、
このメンタリティを
無思考に信じきってしまうことは、
非常に危ういのかなとも思えるのです。

何の根拠もないまま
「生かされることもおかげさま」と考えたとして、
人はそこに一切の功利を
求めずいられるものなのでしょうか。

純粋に、あるがまま、
今、ここに与えられたものや状況に対して、
たとえそれが
自分の望むものではないとしても、
それを「おかげさま」と感謝できるのであれば、
それは成熟したメンタリティの発露とも言えるのでしょう。

しかし、
望むものが得られなくても、
たとえ今が苦しくとも、
それをも感謝して享受できないまま、
「おかげさま」と考えれば
いつかはこの苦境を脱することができると、
苦しみからの逃避の方便として
「おかげさまで生かされて」と祈るのであれば、
それは卑しいと感じます。
これは感謝ではない。
呪詛です。

「苦」からの離脱のために
感謝があるのではないということを
まだ多くの人が理解できていないように思えます。

おかげさまと感謝する生き方には
二通りがあるのだと思うのです。

真に永遠の時間軸というスパンを見据えて、
それでもなお、その身に苦境が訪れた時に
それが必然であり、必要なものであると
理解できる質の感謝。

そしてもう一つが厄介で、
信じれば救われるだとか、
祈れば手に入るだとか、
思えば実現するなど、
条件づけによる感謝なのでしょう。

こちらの考えに囚われているうちは、
永遠に呪詛のタイプの「おかげさま」から
抜け出すことはできないのだと思います。

これは、にわかに呪詛のようなものですから、
発露の根底にあるものは
決して感謝ではないのです。
感謝の皮を被った欲望なのだと思います。

そして感謝すれば救われるのだからと、
いつまでたっても、
「感謝に化けた欲望」に翻弄され続けるのです。

おそらく人は、
たくさん抱え込むから
何かにつけて迷い、
翻弄されてしまうのだろうと思います。

一度に全ては無理でしょうが、
一つ一つ、抱え込んだものを捨てていくことで
迷わなくなるのだろうと思えます。

これは単純に、
取捨選択のロジックです。
ジグゾーパズルのようなもので、
組み合わさっていないピースが
たくさんあるうちは、
あれこれと迷っても、
残ったピースが少なくなれば
どれがどれと分かるようになるし、
「全体が何か」も理解できるようになります。

実は人生というのは、
このパズルの実像が分かってきて
初めて本当の感謝の意味を知ることができるのです。

歪に間違ったピースを無理やり繋げたところで
何が「おかげさま」なのか理解できないし、
そもそも間違えた実像に帰依してしまう、
そういう危うさがあるものなのです。