風上の音

別に、特定の誰かを指して言っている
ということではないのですが、
長いこと、いろいろな人のライブを
観たりして思うことがあるのです。

それぞれ、自分が作った曲を
ライブでやるときMCで、
「○○なことを歌にしてみました、聴いてください〜」
というもの。

まあ、ありがちなシーンではあるのですが、
僕はこういうライブの持っていきかたが
気に入りません・・・(笑)

○○なことを歌にするのは、
別にいいですし、
そもそも、モチーフがなければ
歌などできませんから、
それは良いのです。

けれど、それを
わざわざ、なんでMCで前もって
言うのだろうと、甚だ疑問に感じるのです。

歌いたいそのモチーフを
歌にしたんだから、
歌で伝えろよ、と。

まして前もってMCで種明かしして
どうするのさ、と感じるのです。

手品師が、あらかじめ
タネを明かして手品をするようなものだと思うのです。

そう考えるとこれ、
やってはいけない事なのではないかとさえ
思ったりもするのです。

音楽は誰に対して自由なのか、
という問いになるのですが、
音楽の自由というものは
作り手、送り手にとっての自由ではないと
僕は思っています。
むしろ、純粋に音楽を伝えるために
自分の自由意志という「我」は
捨てなければ、
音楽を伝える役目は果たせないと
僕は考えるのです。

自由なのは聴き手、受け手の方だと
思うのです。

聴いた音楽に、
どのような解釈、意味づけをするのかは
あくまでも聴いた人の自由であるし、
それを送り手がコントロールする事は
送り手のエゴだと思います。

そういう意味において、
曲の始めのMCで
「○○な感じを歌にしました」
という前置きは否定されるのです。

と、こういう風に言うのは簡単なのですが、
ここに音楽の
すごく大切な真理が隠れているのだと
僕は考えます。

音楽で
『自分が自由になること』なら
素人でもできるのです。
カラオケに行くのもいいし、
なんなら動画でネットで配信したっていい。
ただ、それで自分が解放されるというのなら、
その人は見た目は表現者のようなものですが、
音楽の本質からすれば
伝えるべき風下にいる人なのでしょう。

風上には
自分を捨ててでもこれを伝えよという
そんな風が吹いているのです。

それを知れば、そもそも
「〇〇を歌に」という概念すら
なくなると思うのです。

風上にある音楽は
できるだけ「自我」が混ざらないように
細心の注意を払わないと
すぐに曇ってしまうものなのです。