綺麗に老いよう

最近、僕自身、
老いるということに
肯定的な考え方を持つようになってきました。

逆らわずに老いよう、と。

以前も似たようなことを書いた覚えがあるのですが、
老いるということには
良い老い方と悪い老い方があるのだろうなと思うし、
当然、良い歳のとり方をしたいと考えます。

まず、無為な若作りは
かえって、悪い意味で歳をとっているように
見えるというか、
老いと戦っている感じが
傍目に辛く見えたりするものです。

そういう表層的な部分に
情熱を注いでも、
かえって老けていくことが際立つだけで、
決して格好良くないのだろうと感じるのです。

良い意味で歳をとるということは、
醸し出す雰囲気やメンタリティが
深くなるということだと思います。

年齢相応の「深み」がないと
格好悪くなるのではないでしょうか。
それは振る舞いであったり、言動であったり、
それらが年齢相応に満たない時、
それは若い人から見れば
「老害」と呼ばれても仕方がないのだろうと思えます。

人は歳をとるほどに、
「老いる自分」というものを
見せていけるようにならなくては
ならないのかもしれません。

そして、これがもの凄く大事なことなのですが、
ゆくゆくは若い人の真似をされる
生き方を見せるのが
年寄りの務めだと思うのです。
決して、若い人の真似をして
若い人の世界の中に
いつまでも身を置いていて
いいものではないのだということ。

若い人には若い人の世界があるのです。

その世界にいつまでも留まって、
年長者気取りをして
若い人の世界をコントロールしようとするから、
「老害」扱いをされるわけで、
ならば歳をとったら
どこへ、どんな世界へ行けばいいのかと
問うのであれば、
『そこを創っていくことこそが歳を重ねること』
と言えるのだと思うのです。

当たり前のことですが、
世界の中心は自分です。
そして、自分が経験した分だけ
その世界が広がっていくものです。

どんなことも「経験」として
自分の世界を構成する要素として
統合できる人は、
60歳を過ぎても70歳に成っても、
いや、そうやって老いるほどに
「より人の本質に近い」人と成りうるのでしょう。

「老い」が醜く見える時、
それは年齢相応の
メンタリティや品格が備わっていないから
そのように見えるのかもしれません。

その人の寿命に対して、
品性が追いつかなくなる時、
「老い」は醜くなるのでしょう。

生きることは老いることです。
生きているのならば、
せめて老いよう。
老いることは
止まることではないのです。