謙虚ということ

謙虚であるということは、
ことにより真摯にそれと向き合うというのなら、
謙虚であることは
非常に難しいことなのだと思えます。

人間の精神活動の中で
もっとも難しい行為が
「謙虚さ」だとでしょう。

「謙虚」という言葉を
辞書アプリ(出典:じしょ君:笑)に
お伺いを立ててみると、

【謙虚】

控えめで慎ましやかな様。
自分の能力・地位などにおごることなく、
素直な態度で接する様。

とあります。

うん、僕は素直さという点において
まだ謙虚になれないな・・・(笑)

それはさておき、いずれにしろ、
謙虚であることを維持するには
常に自分に問いかけ、見続ける必要があります。

今この自分の振る舞いは
謙虚であったであろうか?

謙虚であることは
こんな自問自答の繰り返しでしょう。

おそらく、
自分は謙虚であると
自信を持って言ってしまう人というのは、
まだ謙虚さの本質に至っていないのだと思えます。

「お前は謙虚か?」と問われて、
「え!?いや、ちょっと待った(ここで瞑想)」
となれば謙虚を実践する人と言えるのでしょうが、
結局、謙虚さというものは
自分以外の立場、つまり他人から自分に与えられる
評価以外の何ものでもないので、
それは一定の境地というよりは、
それを実践しようとしている動的な様相の中に
見出すことのできる質のものなのかもしれません。

簡単に言ってしまえば、
自分は謙虚な人間であると
自負した瞬間から、
そこに慢心が生まれ、
謙虚さとは似ても似つかないものとなってしまうもの。

かといって、
謙虚であることを自分に課して、
自分を過小評価しかできないようであれば、
それは「自己の存在意義の自由性」という意味において
それを侵害しているとも言えるでしょう。

謙虚さとは常に
「己」という細い綱を渡る
スリリングさをはらんでいるのかもしれません。

片方に傾けば慢心に、
もう片方に傾けば劣等感に、
何れにしても、どちらかに強く傾けば
そこから転落してしまうのです。

自己肯定と自信、
自己目標と劣等感。
あるいは自愛と戒め。
これらはバランスを崩したり、
あるいは
履き違えたりすると、
謙虚さを実践できなくなってしまいますし、
そのバランス感の正しさは
日々の生活の中で
常に確認していないと
違う形にぶれていってしまうものです。

人に対しても、
そして自分に対しても、
慎みと赦しを同時に与えることができる様を
謙虚さというのでしょう。

心から「謙虚になろう」と思える時、
自分も「謙虚さ」について
学ぶことができるステージに達したのだと
思っていいのだと思います。

けれどここで、
自分のメンタリティがそこまで来たのだと
威張ってしまったり、
あるいは
滅相もなく受け取れないと
萎縮してしまったりした途端、
精神の昇華は失敗してしまうのでしょう。

世界というものは
自分を中心に、
上も下も、
右も左も、
内も外も、
表も裏もある。

そこを悟ることができると
謙虚さは次のステージへの道を示してくれるかもしれません。

おそらくそこには、
高みに隠れた真実の自分がいるのだと思います。

その人と会ってしまったら、
もう「謙虚」でしかいられない気がします。