「知っていること」こそ感性

「感性」とは言うけれど、
おおよそ人はこの「感性」というものを
漠然とした概念でしか把握していないと思います。
おそらく僕もまた然り。

何かしらの「情報」に対して
自らの内的世界であるところの
精神がどう反応するか、
というのが感性だと僕は理解しています。

人それぞれこの「感性」には
個性があるでしょうし、
受け取る敏感さもまたそれぞれです。

精神が育っていくにつれて
「感性」は敏感になっていく
質のものだと僕は思います。

「感性」というものは
諸刃の剣のような性質を持っていて、
敏感であったり、豊かであるほどに
実生活、現実の中で
ほんの些細なことにも
幸福と感じることもあれば、
その逆に、ちょっとしたことでも
地獄の底に叩き落とされたかのように
感じもするのだと思います。

細やかなことに
一喜一憂するということは
ともすれば神経症的な、
あるいは不安定な精神である、
一般論的に「心の弱さ」と
捉えられがちなのでしょうが、
僕はそうは思いません。

何も感じない人と比するなら、
より多くを感じ取ることのできる人というのは、
それだけ外的世界において
より多くのことに気づく人であるし、
そこに様々な心象を付与することは
それだけ多くのことを
『知っている』に他ならないからです。

故に、「感性」の成長の行き着くところというのは
この世界の森羅万象、あらゆるものを
『知っている』状態となるのだと思います。

精神的にタフになるということは、
決して愚鈍になるという意味ではありません。
この世のあらゆるものすべてを
『自分は知っている』ということを
「許容」できる精神を獲得することなのでしょう。

精神は「知って」そして
「許容」することによって、
「感性」を形成し、精神は育つのです。

人をして生きるのなら、
見て見ぬ振り、知らない振りをするのは
罪でさえあるでしょう。

「知ることによって」
笑って、泣いて、怒って、悲しんで、
そうやって「許容」つまり
「赦す」ことの本質が心に身につくことによって、
「感性」はさらに磨かれ、
さらなる高みへ到達するのだと思います。

そしていつか、
あらゆる感性が全てを理解し、
「唯一の真なる自分」の元へと
統合されていくのです。