バカみたいにパターナリズムを連呼して忍びないが・・・

パターナリズムという言葉があります。

パターナリズムとは、ごく簡単に言うなら
立場の強い人が弱い人に対して
「良かれと思って」弱者に対して
あれこれと介入したり、ときには指示したり、
そういう思想、行為のことです。

身近なところにある
パターナリズムと言えば家族です。

親は子供に良かれと思って
躾や教育をします。
これがパターナリズム。

お医者さんが患者に良かれと思って
痛い注射を打つことも
パターナリズム。

そして、国民の生活を保障するという
名目のもとに存続している
「国家」の存在は
パターナリズムのいち単位としては
もっとも最大の存在でしょう。

上記の質のものが
パターナリズムであるが故に、
それはともすれば
個人、個性の搾取に繋がるものだと
批判の対象にもなったりします。

躾も、注射も、そして国も、
そこに人同士の信頼関係があるのであれば
パターナリズム批判という構造は生まれないのですが、
それでもパターナリズム(に関わる質のもの)批判が
存在するということは、
やはりそこには信頼関係の不在もあるでしょうし、
実は弱者である立場の無知により
そういう建設的な関係を構築できないということも
大多数を占めるのでしょう。

そして今、
この人類のパターナリズム思想、あるいは
パターナリズム構造というものが
崩壊しようとしています。

テロリズムというものは
パターナリズムの奇形であり、
人類の精神構造の中の
パターナリズムを根底から
強引に崩壊させる強い毒性を持っていると感じます。

そして実は、
「この腐敗した世の中をぶっ壊してやる」
というありがちな「想い」自体も
パターナリズムの綻びなのでしょう。
遠いようで、こうした憂国の志もまた
テロリズムの論理とは近接したものだったりします。

パターナリズムによって
弱者と判定された者たちが、
この世界社会の基部にある
パターナリズムの礎を壊そうとしているのでしょう。

今、この社会で見えているものは、
パターナリズムの思想が
自らのその質の弱点によって
自滅しようとしているという事象。

そして、パターナリズムに
盲目的に迎合しない人たちが
増え始めているということの
顕れでもあるのかもしれません。

・・・というか、
文脈上仕方がないことではあるのですが、
この記事に何回「パターナリズム」という
言葉を使ったんだよ、と
ツッコミを入れたい自分がいるのですが・・・(笑)