人口が減って社会は死ぬか?

最近は自治体までもが
少子高齢化社会の対策として
いわゆる「婚活」をさせたりとかして、
なんとか人口を増やそうとしています。

そもそも考えてみれば、
人口というものは
長いスパンで見れば
必ず増減の波があるわけで、
右肩上がりで人口が増えることを前提とした
社会体制、経済体制という
フォーマットの枠にあって
人口減は、そのまま収益源となり、
そして国力までも引きずられるように
低下させてしまう質のものであったりします。

人口が減って経済が縮小すると
悪循環で人口が減る。

もっとも考えようによっては、
こういうマクロな視点で見たときの
人間の動向自体、
人口抑制の本能的な行動なのかもしれません。

ただ、ここで考えるべきなのは
右肩上がりを前提とした社会経済の構造です。

資本主義、というか
経済というものは
「右肩上がり」という幻想を前提にしないと、
資金繰りさえままならないのです。

右肩が下がっていく現状の中で、
右肩上がりという前提を崩さずに
社会を運営すること自体、無理なのです。

この社会体制を維持するには、
先細りし、老いていく世代をケアするには、
そういうことを考えたとき、
この社会体制のままで
新しく生まれてくる子供達というのは
明らかに、老いていく世代の奴隷になってしまうのです。

「うちの子は違う」
子を持つ親なら誰もがそう言うでしょう。

実際、「個人としての子」でならば
時良識ある親であれば誰もが
我が子を隷属として扱うことなどしないでしょう。

しかし、第三者同士が関わり合い
形成されていくところの
「社会」では
『子は自分の親のように扱ってはくれない』のです。

すでに日本の社会では
その兆候が顕れています。

引退の近い「親世代」でさえ、
我が子のために良かれと働き
蓄えを残そうとしますが、
その蓄えの本質は
「奴隷のように扱われている社員」の
「うわまえ」であるということに気づくべきです。

我が子のために、
他人の子を奴隷として扱う。

そしてやがて「親世代」が
動けなくなったとき、
彼らの面倒を見るのは誰なのか。

そこで面倒を見る人は
「家族」ではないかもしれないのです。
まして、人口が減少している現状においては
なおさらに。

ここで上記の例えと
逆の構造が見えてきます。

看取る人が「子」であるならまだいい。

けれど、
家族以外の人が看取りや介護を受けるならば、
それは間違いなく
『子のように親を扱ってくれない』のです。

この不均衡こそが
今の社会体制のもっとも
脆い部分だと言えるでしょう。

これからの社会では
老いて死んでいく人をして
「身内の死」と悼んではくれず、
「一つの仕事の完結」と
みなされる時代となっていくのかもしれません。

何が何でも右肩上がりにもっていこうと考えるより、
人が少なくなった社会の在り方というものを
模索したほうがよほど建設的だと思うのですが。