愛する技術が生きる力を与える

「愛することは技術である」
ということは当然、
男女の間にも同様に言えることです。

例えば極端な話、
女性を便器のようにしか扱えない男性や、
あるいは
男性をATMのようにしか思えない女性
という人たちというのは、
突き詰めれば
自身の目的の遂行という部分、
つまり自分の欲望の結果を
愛しているに過ぎないわけで、
決して、実際にその相手を
愛しているかといえば、
それは否定されるでしょう。

ついでに言えば、
「本当の意味」で相手を見ていない。

それは人を愛する技術から展開する
「人を見る技術」の乏しさにあるのでしょう。
もしかすると、
あえて無意識にでも
人を見ることを避けているのかもしれない。

いずれにせよ、
それは愛の不在によるところであるし、
その愛の不在が
人の感受性を衰えさせていくのだと思うのです。

「人の精神的な感応」という
技術を持たない人からすれば、
男女の間柄というのは、
より物質的で肉体的な欲求が先立つものとなるし、
そうしたもの同士が
そういう部分の感性を成長しないままでいると
永遠に共鳴しては壊れての繰り返しに
人生を費やしてしまうのでしょう。

上記の喩えで言うなら、
お金で女性のセックスを買うことを
是とする世界観を生きる男性には、
セックスでお金を引き出すことを肯定する
女性しか寄り付かないのだと思うのです。
これが真理。
虚しいことに強ち極論でもない。
いや、今の社会構造自体、
根底の無意識にそうした想念は息づき、
社会や産業を形成しているのだとすれば、
それが世間一般、
多くの男女の間柄なのかもしれません。

もちろん、下世話な価値観の人ばかりではない
ということも知っています。

つまり何を言わんとしているかというと、
結局、男女の関わり合いにおいて、
「愛する技術」がおおよそ等しい者同士が
結ばれるのだろうなということ。

縁あって、互いに愛するスキルの全く違う
そんな相手と関係を結んだところで、
いつか破綻してしまうことは目に見えているし、
いっときは同じ程度の
愛する技術を持ち、知り合い、愛し合ったとしても、
どちらかがその
愛する技術を鈍らせたり、または
片方がやたらにその技術を成長させたりとか、
愛のスキルに何かしらの不均衡が起こっても、
やはり長く続く二人には
なれないのだろうと思うのです。

片想いで物思いにふける時、
人はその精神を詩人や哲学者にし、
大きく心を成長させることができますが、
それ以上に
縁あって結ばれたふたりというのは
「ふたりで等しく成長していかなければならない」
という、より難度の高い問題に突き当たるものです。

けれどその成長というものは
人にとって不可欠なものです。

「ふたりで」恋に落ち、愛し合わなければ
人の精神のさらなる高み、学びは
得られないのです。

現実問題、恋が叶ってハッピーエンド
というわけにはいきません。
恋が叶ったなら、
恋が叶ったそこから、
「ふたりで」愛を育てていく
共同作業が始まるのです。

その共同作業を通して得られるものこそが
「愛する技術」なのでしょう。
しかもその技術は
「ふたり」でないと得られないという。

故に、愛のない人というものは
あい対する人を「見る技術」も
育たないのです。

人はこうした、
それこそ摂理といってもいいほどの
自然で単純なことを
往往にして難しくして
逆にその力さえ衰えさせてしまうのは、
人をして生きることの皮肉なのかもしれません。