人生は愛だ

かつて高名な哲学者が
「愛することは技術である」
と言いました。

これは真理だと思います。

そして同時に
「愛する技術」はそのまま
「生きる技術」に
通じていく質のものでもあるのでしょう。

人に対してに限らず、
あらゆる物事において
愛し方を知らない、もしくは未熟であるほど、
きっと自分の生かし方もまた
貧しいものとなってしまうのだと思うのです。

はっきり言えば、
『人は愛さずしてその人生はない』
と言い切れます。

人生は、人の人生というものは、
得られた富や名声そのものに本質はなく、
それらを得ることができた
喜びの体験に本質があるのであって、
富や名声を求め、それに人生を賭した人は
目的としてそれらを求めているようで、
実際にしていることは
富や名声を愛しているのです。
あるいは、富や名声を得ることを
「人生の目的として愛している」のです。

人間、ある一定の結論として
一つの結果を得られたら、
それについては意外と興味を失う
ということもままあります。

執着しなくなるという意味においては
精神は健全に機能しているのでしょう。

求める結果が得られず、
それでもと奮闘しているうちは
まだ自分の中での
それに対する正しい愛し方を知らないか、
あるいは
多様な愛し方のバリエーションを試しているか、
そのどちらかでしょう。

そう考えると、人生において
愛するということは、
一つの起点に現れた原因から
一定の結果に至るまでの過程の中に、
結果へと帰結するための
動力となっているのかもしれません。

人の人生というものは、
もの思い、そして答えを見出し、
さらにもの思うという繰り返しです。
つまり、そうした人生には
常に愛が流れているのでしょう。

この原因を結果へと導く
「愛という原動力」を
上手に方向づけて流していくことが、
愛の技術なのだと思うのです。

「愛する」という感覚が育たないと
人生のすべてが無為に思えるし、
原因に対して、どんな結果さえも愛せず、
そこに意味さえも見出せないまま
老いて死んでいくのです。

僕も含めて、
この世の誰もが
「正しい愛し方」を学べないまま成長し、
故に「愛がない」世の中となってしまっています。

どんな結果にも満足できないのは、
あるいは、
手に入れてもどこか虚しいのは、
「それ」を愛せていないからであり、
その要因は、
もともと「愛のない原因」を生み出した、
「自分の愛の至らなさ」にあるのです。

愛そう。
生きるのなら。