「逸脱者」が社会を変える

この世界には
能動的志向を持つ人たちと
受動的志向を持つ人たちの
2種類に大別することができると思います。

つまり、
自分から進んで目的を見つけ、
それを実現するために自発的(自律的)に
生きていこうとする人間と、
周りと同じように合わせて、
全体として波風の立たないよう
穏便に生きていこうとする人間のことです。

ニーチェ流に言うならば、
前者が超人、
後者が蓄群のことなのでしょう。

僕は間違いなく前者ですが、
かと言って、後者を悪く言う気もありません。
なぜなら、世の秩序を形成たらしめているのは、
後者のタイプの人たちであろうから。

そして社会では、圧倒的多数を占める
マジョリティこそ
後者の人間なのです。

学校を思い出してもらえばわかると思いますが、
クラス、学級という集団の中の
人間の役割は3種類あります。

一つは優等生。
もう一つはその逆のいわゆるヤンキー。
そしてもう一つが
最も多い、その他の生徒。
学校を卒業して10年とかしたら
そんな人がいたかどうかも思い出せない人たち。

この影の薄い「その他の人たち」というのが
社会を支えているのです。

そういう学校生活での人間関係の構造を
そのまま社会に照らしてもらえばわかるように、
社会人全員が学者(秀才)や政治家(学級委員)
というわけにはいきませんし、
社会人のすべてが反社会的思想の持ち主(ヤンキー)
であったら、それも恐ろしい。

精神的性質の偏差値が50に近い人が
その社会の気質を決めているのだろうと思うのです。
50に近接するほど
人は長いものに巻かれて良しとする人生を生きる
受動的人間なのです。

そして偏差の両端の人間が
集団の中で良くも悪くも
ブレイクスルーを起こしたり、
統制する力を行使したりする
能動的人間で、こういう人たちが
大半を能動的人種で占める社会を
動かす方向を決めているのです。

これが人間社会の実像。

もう一つ付け加えるなら
最近は個性の尊重が優先されることによって、
誰もが精神的偏差値が
中央に位置するような人間になりたくないと、
僕のように(笑)
やたらと知識人ぶったり、
マイルドヤンキーになってみたりと
二極化しているのが現状なのだろうと思います。

結局、身の丈に合っていない
突き抜けることのない素行それ自体が、
人の内的偏差値の中央付近にある人の
それだったりもするのですが。

そしてそれらと同時に近年、
ここにもう一つの概念が増えたと感じます。

それは学校で言うところの
「不登校」のひとたち。

つまり、社会という集団に照らせば
そういう構造からドロップアウトした人たち。
彼らは『逸脱者』です。

以前、僕がひきこもりについて言及した時
「出家」というキーワードを挙げました。
『逸脱者』というのは
要は古来より存在する
「出家」あるいは「解脱」するような
メンタリティを持つ人だったりします。

社会構造の外、
それはお寺かもしれない。
はたまた監獄かもしれない。
それは『逸脱者』の極性によるところですが、
いつの間にか、
おそらく特に戦後になってからなのでしょうが、
そういう「逸脱者」を作らない社会が
是とされてきたのだと思います。

そういう社会理念が形成され、
「逸脱者」という存在が出現したことによって
優等生もヤンキーも同じ穴の狢。
社会規範の範疇内を生きる
平均的な領域に分布する人間という枠に
収まってしまったのです。

世間一般の秀才もヤンキーも、
「逸脱者」とはなれない。

秀才もヤンキーも
枠を逸脱したものからすれば
社会、世間という枠の
内側、中央を生きる人であるのだから。

社会に対しての
「適応者」を平均として
「逸脱者」が偏差の両端に存在するという、
「集団意識の二重構造化」が
生まれつつあるのです。

これはおそらく、人の認識が
既存の社会システムの枠内に
収まらなくなってきた証でしょう。

これからおそらく、どんどん
「逸脱者」は増える。
現代、既存の社会システムが
アップグレードするまで
「逸脱者」は増え続けます。

しかしやがて、
「逸脱者」が社会的に受容されるような
そんな時代がやってきた時、
「逸脱者」もまた
偏差の中央に分布する人種となるのだと思います。
そしてそういう社会においても
「逸脱」する人は無くならないのだと思います。

こうやって人間社会、そして文化というものは
時代を通して変わっていくものなのでしょう。