ナイトとプリンセス

僕はこのブログで
フェミニズムについて何度か言及してきました。

もっと女性の立場は向上すべきだと考えています。

ただ、それは今、現状として
現代社会が男性有利なシステムで
運営されているが故に、
相対的に女性性の地位向上を訴えているだけで、
決して、女性有利の思想を持っているわけではない
ということも明確にしておかなくてはならないでしょう。

何度も書いてきましたが、
男性は男性としての務めを果たし、
女性も女性の役割を果たすことで
男女平等の社会が実現すると考えています。

自分のジェンダーを
自分の思うように
自由に表現して生きていく
というのは、
現代社会においては
男女問わず難しいと思えます。

社会、集団の中における
自己の表現の自由という観点から見た時、
避けて通れないのが
「自分のジェンダーとは何か」という問いです。

男も女も、
意外とステレオイプ的な男女性を
生きている人はいないものです。

男性にだって女性的感性はあるし、
女性だって男性的気質は持っています。

そこを踏まえた上で
人が自身のありのままのジェンダーを
生きるとするとき、
どんな形であっても
ひと組の愛を体現するペアというものは
男性性と女性性のバランスを保ちながら
その関係性は育まれるものです。

これは、
「男子たるもの」とか
「女性ならば」とかいう
そういう表層的な既成概念、固定観念ではなく
純粋に性質、気質としての
ジェンダーの組み合わせのバランスを考えるときの
ひとつのモデルとしてのイメージとして
述べるものなのですが、
おそらく男女のペア(肉体的性差とは限らない)において、
男性はナイト(騎士)
女性はプリンセスという関係性は
理想の成熟した
ひとつの形ではないかと考えるのです。

もちろん、ここでいう
ナイトとプリンセスというのは
おとぎ話のようなイメージのものではなく、
もっと現実的に果たす役割として、
男性性(肉体的なものとは限らず)は
女性性に「仕える」性であり、
女性性は男性性に「従う」のが
理想なのではないかということ。

またこれは、あくまで
肉体的なことだけに言えることではないという
理屈から考えるに、
社会全体の中での集団が持つ
広範囲のジェンダーにも言えることかもしれないし、
また個人の内的な世界で拮抗する
「自分」の中のジェンダーでもあるかもしれません。

あるいは、
男性性は女性性に対して
女性性は産んでくれる(子供とは限らない)
存在であるのだから
その生涯を賭して仕えるのであり、
また同時に女性性も、
男性性が「行き着く先を示してくれるからこそ」
その生涯で男性性に従っていけるのではないでしょうか。

当然、これは
男性たるもの、女性たるものという
単純な二元論で片付く論理ではありません。
それどころか、それでは本質を見誤ります。

ひとつの男女のカップルの中に混在する
男性性と女性性のバランスと、
その関係性の中で「交流」される
感性という質感のあるエネルギーのことをいいます。

故にこうした例えるところの
男女のペアの「交感」は
肉体的性差よりも形而上の部分で
適宜、適切に役割が分担されることで
なされるものなのでしょう。

こう考えるならば、
おそらく人というものは
自分を知れば知るほどに、
「自分とは逆のジェンダー」の存在を
確信するに至るのではないでしょうか。

そう。
間違いなく自分の「魂の片割れ」は存在する。

ナイトとプリンセス、互いにその役割を
交感し合える魂の写し鏡は
確かにいるのです。

個のジェンダーを深く考察するほどに、
個は単なる一個の個ではなく、
ナイトとプリンセスを宿す
ひとつ拡大した自己を認識するのでしょう。