ニュースを見ないという選択

今、あえて僕が勧めたいのは
「ニュースを見ない」という選択。

つい先日いえば、
フランスで凄惨なテロ事件があったばかりです。

確かにこの事件で犠牲になった人には
最大級の慰めと追悼の思いを手向けるべきでしょう。

ただ、この事件にとってみれば、
実際にこのテロの被害にあった日本人は
いたでしょうか。
近しいところにいたはいたでしょう。

けれど、多くの日本人にとって
この事件は直接的な当事者ではありません。
ドライな物言いですが、やはり
この事件は日本人にとって
海外で起きた
ひとつの凄惨な事件に過ぎないことは
事実だと思うのです。

フランスのテロだけではありません。

毎日のように起こる
国内の残忍な事件も然り、
腐りきった政治のすったもんだも然り。
もしかすれば、
景気がどうだとか、経済がどうだとか、
雇用がどうだとか、
連日発信されるそれらの情報も、
情報として受け取ることはあっても、
果たして自分の実生活の中で
それがどのような影響力を持つものなのか、
そこを明確に問うべきのような気がします。

ひとことで言ってしまうなら、
「ニュースは情報以上でも以下でもない」
ということに尽きます。

ニュースや新聞などの情報に対して
自身の生活にそれが
いかような影響を及ぼすか、
そこが本質なのではないでしょうか。

実生活とは遠いニュースというのは
実質的認識からすれば
「仮想の情報」に過ぎないのではないでしょうか。

それらの「遠いところにある仮想の情報」に
ネガティブな意味で振り回されたり、
ときには怒りを覚えたりするくらいなら、
そしてそういう「仮想情報」の発信源たるものが
ニュースや新聞であるのなら、
それらからの情報は
得る必要ではないもののような気がします。

自分とは遠い世界の
惨状を知るより、
もっと身近にある
心の温まる「現実」を
体験するほうがよほど人にとって
人生に有益なものをもたらすのだと思うのです。

まあ、俗世から隔絶して生きていくのであれば、
本当に「報道」は必要ないと思います。
むしろ、そういう人たちにとっては
「報道」は自我の中の雑音たり得るでしょう。

しかし、もっと一般社会の中で
生活する人はそうはいきません。
社会という構造の中で生きるには
知る必要があることも確実にあります。
それは間違っていません。

ただ、ニュース、新聞などの「報道」が発信する、
自分の実生活からは
およそかけ離れた
残忍で、悲惨な事件などは
見ても受け流してしまっていいような、
無益どころか、有害でさえある
情報なのです。

誰かが誰かの首を絞めて殺した
などという話は、
自分の実生活にとって
なんに益をもたらすと言うのでしょうか。

そういういみで、
あえてニュースなど見ないという
選択はあり得ると思うのです。