貧しくなる人、貧しさを選ぶ人

将来、もしかするとこの世界は
貧しさを選ぶ人と、
貧しくなる人のふた通りに
分かれていくかもしれません。

貧しさを選ぶ人というのは、
自身が得る(得るであろう)富は、
実は他者の存在という絶対尊厳を
損なう行為もあり得ることに
気づいた人たちのことで、
誰かを押しのけたり、傷つけたりしてまで
自分の利を得ようと思わない故に、
必然的に貧しくなっていく人たちのことです。
もちろん、ここでいう富というのは
それ以上のもの、言い変えるなら
利他的なもの全てのことです。

それに対して
貧しくなっていく人というのは、
上述で言うところの
他者の絶対尊厳は
自身の実利のためならばスポイルしても
構わないと考える人たちのことで、
人の絶対尊厳さえも
自分の利得として得るので
おそらく物質的には富んでいくのでしょう。
もちろん、物質的なものだけのことを
さしているのではありません。
あらゆる利己的なもの全てが
これらにあたります。

そしてこの両者はもしかすると、
バランスよく共存するという
状況にはならないだろうとも思えます。

なぜなら、
清貧か、目先の贅沢を甘受するか、
(利他主義か利己主義か)
その選択に葛藤しているうちに、
富を求める人(利己主義)から
あらゆるものを搾取されてしまうから。

富む人から見える視界は
搾取された人たちの死骸で埋め尽くされています。
その視界は決して豊かではないはずです。
この論理で富む人にとって
道に倒れる人というのは、
自己責任で倒れていった人であり、
敗者であって、
自分はああなりたくないという
否定の想いを倒れる人に向けるでしょう。

人の絶対尊厳を愛する人は、
少なくとも資本主義的経済、社会構造の元では
決して富む人にはなれないでしょう。
けれど、その視界に
はらわたを食いちぎられて捨て去られるような人は
存在しないでしょう。
仮にそうした人を眼前にしたとして、
そこに向けられるのは
労りと慈しみと、慰めの想いなのです。

利己の道、あるいは利他の道
どちらの道を行くのか。
共存や調和は
先に触れた理由から
あり得ないことです。

どちらを行くのか。

この世界にあって、
これは人類の最後の選択となるのかもしれません。