逸脱者と密閉社会

昨日は社会の枠という
認識から「逸脱」する人の存在に
言及しました。

そこでも少し触れたのですが、
社会というものは
この「逸脱者」を出来る限り作らないような
システムになっているのですが、
そもそも良かれ悪かれ
社会の枠というシステムから漏れる人というのは
いつの時代でも存在するのです。

この世のすべての人間が
「社会の一員」であるという
現代社会の実像の方がむしろ不自然なのです。

宗教家(法人)も然り、
牢屋の中の犯罪者も、
社会の中の人間のメンタリティの分布という
点においては偏差の両端に位置する
人たちではありますが、
そもそもその「偏差」の中に
入っていること自体、
それだけで「今の社会の一員」
ということになってしまうのです。

自由で民主的であれと
シュプレヒコールをあげるその集団
そのものこそ、まぎれもない社会であり、
実は『密閉社会』という
閉じた社会構造の中を生きる
集団であったりするのです。

しかし昨日も述べた通り、
いつの時代でもそういう枠から
はみ出ていく人たちがいるのです。
それを『逸脱者』と呼びました。

『逸脱者』というのは、
集団という構造の中に身を置くことを
嫌う人たちのことでしょう。

社会というものは、
個の集まりである集団の集積であるので、
構造を弱体させてしまうような
『逸脱者』は出来るだけ作らない方が良いわけで、
いつしか現代社会というのは
『逸脱者』を見つけようとする監視社会となり、
逸脱した人を元の枠の中へ呼び戻す必然を
方便とするための装置を誰ともなく設置し、
それが不可視化された
隷属社会を形成していったのです。

人間はひとまとまりに
ナショナリズムや思想という
パッケージの中に
密閉されていた方が、
世の中としては都合も効率もいいし、
そもそもこの世界自体が
密閉された人間にとって
都合の良いような仕組みになっているのです。

密閉されていた方が便利な社会システムであれば
そのまま密閉されていれば良いではないかと
そう思う人もいるでしょうが、
密閉されると風通しが悪くなります。
空気が淀みます。
密閉された中で
感染症が発生したとしたらどうでしょう。
しかも、ウイルスのキャリアが
逸脱しようとしても
それを呼び戻すという。

密閉された社会の中で
広がる感染症は、
人の心、魂を蝕みます。

苦と楽、
薬と毒の区別がつかなくなります。

そして窒息するのです。

けれどこの世の大多数の人は、
密閉されたこの枠の中にいた方が
呼吸ができると思っていますが、
これこそが「密閉社会」が刷り込んだ
幻想に他ならないのです。

社会というパッケージの外側に出た方が
風はそよぐし
空気も美味しい。

そもそも
「魂」という存在は
そうした幻想に
密閉されるべきではないのです。

パッケージの外へ逸脱した時、
いかに密閉されている状態が不健全であるか、
そして自分もその中で病んでいたこと、
またさらに、
外へ出ることによって
その蝕まれた魂が癒されていくことを
ほとんどの人が知らないのです。