優生の向こう

「子を授かりました」

「おめでとうございます!
男の子がいいですか?
それとも女の子ですか?」

「いやいや、五体満足で健康であれば
どちらでも構わないです」

よくある会話です。
他愛のない、むしろ喜ばしい会話でしょう。

ただ、ここに
「優生思想」が静かに影を落としているのも
事実なのです。

これは人の存在足らしめる拠り所を
問い直す究極の問題なのです。

妊娠し、子宮に宿った子に対して
男の子がいいとか、
女の子がいいとか、
少なからずの人が
なんの邪心もなく希望を膨らます
その希望自体も、
子に対する愛について
パーソナリティを限定する考えなのです。

まあ、もっとも健常な親であれば
男の子が欲しかったのに
女の子が生まれたとしても、
それはそれで受け入れて
普通に親として愛するのが普通です。

では、その後にくる
『五体満足な子ではなかった場合』はどうでしょう。
我が子に先天的な障碍が見つかった場合、
その子を、その障碍を受け入れて
愛することができるでしょうか。
そして育てることができるでしょうか。
その障碍のある子を、
どのようにして社会の中で
適応させていくと言うのでしょう。

障碍を持って生きるということは、
単純に社会のマイノリティとして
生きること以上に
難しいのが現代社会です。

そういうとてつもない葛藤を背負う勇気こそが、
子作りに問われるべきだし、
きっと、子を持つということは
その責任を負うことができる資格を
有していることと
道義の意味なのでしょう。

命という「我が子の人生」の重みを
どこまでその身に思い知ることができるか。

そういう重い葛藤を乗り越えた
親の元に産まれた子供は幸せでしょう。
なぜなら、愛されて育つであろうから。

今のこの世にあって、
「愛されて育つ子」というのは
幸福な存在です。

愛されずに育った子は、
愛されて育った子を傷つけたりもします。
愛されていたはずの子は
そのことによって
愛されない人になってしまうのです。
愛されなかった人は
人を愛さなくなります。

このことの意味の重大性がわかるでしょうか。

人間の社会に生まれ落ちるということは
個性の優劣と淘汰がものを言う世界、
まるでアフリカのサバンナのような、
粗野な世界に放り込まれるようなものだと思うのです。
そう、人類が構築した
「社会という野生」の中へ。
しかもその野生というのは
「一定の人にとって都合の良いように」設定された
自然の摂理とは無関係に構築された社会なのです。

僕なら、今のこの社会には
とてもじゃなく
自分の子孫を残せません。

与えた愛を詰むような障害が
あらゆるところに張り巡らされている社会。
ここに愛する我が子孫を
放り込むことは僕にはできません。

逆に言えば、
それでも親として生きる道を選んだ人は
僕からすれば果てしなく
尊い存在でもあります。