認知と実存

物事というものは
それが心に認知された瞬間から、
その心の中に
間違いなく存在するものです。
たとえそれが
認めたくないようなものであったり、
また
偽りであると感じるものでさえ、
それらは
認めたくないもの、偽りのものとして
心にいつまでも存在し続けます。
完全に心から忘れられ、
消え去るまでは永遠に。
例えば神。
神という概念を知ってしまった以上、
神を信じようが信じまいが
神は存在しはじめるのです。
この時、神の存在の真偽は
問題ではなくなります。
真実か虚構かは別として、
神の概念を
知ってしまったか、
まだ知らないかの違いがあるだけなのです。
神の存在を信じなければ、信じなくとも
神は「偽りのもの」という存在として
確実に心に「実在」するという事です。
それは神以外、その他の
不確実性を帯びた物事すべてに於いても
同様の事が言えます。
不確実だからそれは虚偽だと
認識するのはいささか早計のように思えます。
不確実と思える物事の本質は
そこにはありません。
不確実な状態であっても
それはただただ、不確実な状態で
そこに実在します。
また、
不確実と感じていた物事も
それの実体を理解したらそれは
不確実なものではなくなり、
その存在も肯定すべきものとして
認知出来るようになるでしょう。
つまりそれは、
ひとそれぞれ認知の深さ、質は
違うものであり、
誰かにとって不確実な物事であっても、
別の誰かにとってそれは
よく知る普遍的で確定的な物事であったり
するものである事を意味します。
認知として
自身の心に統合され
既に実体を持ってしまったものを、
偽りだからと排除しようとすると、
心は分断され、
それがストレスになります。
つまり「否」と断ずるものすべてが
心のストレスとなりうるわけです。
人生の苦とは
この排除したい「否」となすものが
心の中でどれくらいの数存在するかで
推し量る事が出来ます。
逆を言えば、
受け入れたものの数が多いほど
心は平安になれるのです。
それを肯定しようが否定しようが、
すでに心に刻まれてしまった物事は消えません。
しかし、肯定、否定の二極の極性は
いつでも反転させる事が可能です。
この極性の変換を自由に行えるようになると、
物事に対する
二極性の評価というものに
意味は無かった事に気づく筈です。
肯定、否定という概念を越えて、
ただ心に内包する
何の意味も無い物事が
あるがままにそこにあるだけだったと
気づく筈です。
しかしそうした
無意味となった物事は
様々な側面から見る事によって
様々な捉え方、感じ方が出来るのだと承知し、
繰り返し何度も
改めて認知の再構成をする事で、
いつしか
全体を知り、
さらに全体そのものになっていくのでしょう。
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