僕のインナーチャイルド:2

昨日のお話の通り、
インナーチャイルドは
過去の心の傷が癒えず、トラウマを伴って、
心の光の届かない処でうずくまっています。
実のところ、僕の心の中にも
このインナーチャイルドが住んでいました。
僕の中の癒されないまま浄化出来ず、
心の成長から取り残された部分。
それは、相手の名誉にも
関わる事だったりするので
オブラートに包んで話しますが、
僕自身、今だから言える話、
実のところ
決して健全に愛情を受けるには程遠い
幼少期を生きてきました。
絶えず特定の相手から受ける仕打ちに
怯えていましたし、
物心ついた頃から
僕という人格を否定する言葉を
ぶつけられて育ってきました。
僕を受け入れてくれる人は
どこにもいませんでした。
だから僕には
幼少期の思い出と言えば、
怖かったり、哀しかったりといった
思い出しかありません。
本当に、思い返して
少々の幸せだった時の記憶を探しても
全く見つかりません。
その相手となる人たちは、
その人たちなりの
僕への愛し方をしていたのかもしれませんが、
それは今、客観的に思い返してみても、
それが愛というのなら
非常に歪んだ愛情だったと言わざるを得ません。
まだ幼稚園に入るよりも前にすでに、
この世を生きるという事は
これほどまでに過酷なものなのかと
思い知らされていました。
生きる事は地獄だと、
生まれてから3~4年にして
悟っていました。
だから僕の心の奥底に、
「生まれてきてはいけなかったのだ」
という感情が
多分今でも浄化出来ずに
刻印されてしまっているようです。
自分史の1ページ目、最初の言葉が
自己否定から始まっているわけですから、
当然、人間関係においても
「だけど結局は僕を切り捨てていくんだよね」
という無意識の前提が
人に対して僕の心を開かせない
素因となってしまっているのです。
僕が人を信用出来ない
一番大元のルーツがここにあるのだと思います。
きっとそれが
僕自身、いつも
人間関係でつまづくハードルとも
なっている気がします
僕の中の成長しきれない心の断片とは、
幼少期のもっとも初期に
雑巾のように扱われた事への
圧倒的な哀しさなのだと思います。
そしてそれが恨みとなって
凝り固まってしまっているのだと思います。
今、こうしてこの文章を突き動かしているのは、
そのように扱われた事への
復讐心であり、
そして根源的な不正に対する鋭い怒り。
これは心の傷から出る血なのでしょう。
今、大人となった僕は
この血を手に受けて、
未だ浄化される事の無い感情を
ただひたすら慰めて、なだめ、
時の流れへと還してやらなければ
いけないのだと思います。
そして傷となってしまった心の穴を
自己肯定で塞ぎ、修復するべきなのでしょう。
とにかく赦さなければいけない。
この内なる子供も、
そんな子供を取り残させた相手たちも。
真の愛ある人となるには、
これこそが最大にして
最後の試練のように思えます。
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