ロックスピリット

ロック魂とは何でしょう。
先日、僕のインナーチャイルドという
話をしましたが、
確かに僕自身、事実として
幸せな幼少期を過ごしておりません。
でも、人格形成の土台が作られる時期に
そうした穏やかでない人生を過ごしたという事は、
ある意味、結果として
僕のロック魂を育てたと言っても
過言ではないように思えます。
ものは取りようで、
ミュージシャンというのは
ちょっとくらい病んでて、
どこかに孤独の影が差しつつも、
むしろ影がある故に
その憂いの反動として音楽を唄う、
それくらいの方が
色気や艶めきがあって
格好良かったりもするように
思えるのですが、
それが僕の理想とする
ロッカーの姿であるのであれば、
多分僕はもう、
その理想を叶えている。
間違いなく僕はそういう人です。
特に鮎沢郁弥と名乗るようになってから
キャラがぶれた事もありましたが、
やっぱり自分に
嘘偽りの無い姿が自分にとって
一番ロックだと思うし、
あれこれと下手に演出された自分より、
一番自分らしい姿でいる事が
自分の理想の姿だと
ようやく最近理解出来たんですよね。
そもそもロックって何なのでしょう。
ロックって基本はやっぱり、
感情の初期衝動に近い部分にある
一番力のあるエネルギーだと思うのです。
それは何かを打ち壊すためのエネルギー。
それは何かを構築するエネルギー。
破壊と再生という
物理的なエネルギーをともなう力を
ロックは秘めていると思うのです。
若い頃はひたすらにただ
打ち壊していけば良いのだと思います。
しかし
歳を重ねてもなお、
単に壊し続けるだけで終ってしまうような
ロック魂というものは、
ただの幼稚さを露呈するだけで
あまり格好良くないのですよね。
壊した後は再構築せねば。
いつまでも
「ぶちこわす!」と叫んでいるだけでは、
その辺のチンピラと変わりがないのです。
僕が思うに、健全なロック魂の
昇華のさせ方というのがあって、
その形は例えば
U2のボノだとか
もっと古くはジョン・レノンだとか、
音楽ですらありませんが、
スティーブ・ジョブズだとか。
それこそ
腐敗したユダヤ教を打ち壊し、
教えの本質を取り戻そうとした
ナザレのイエスも
まさしくロック魂を持っていたと思います。
昇華されたロック魂は、
その行き着く先に
イノベーションを見据えている。
自身の世界観の本質を
世に問いかけ表現出来、
物申せるようになる事が
ロックというメンタリティの
行き着くところだと思うのです。
唄った後は
酒や性欲、ともすれば麻薬に溺れ、
乱痴気騒ぎに耽るだけ、
それで完結してしまうようでは
ただの跳ね返りの現実逃避に過ぎないのです。
小さい。
小さ過ぎる。
あまりにも陳腐だ。
跳ね返されても、跳ね返されても
何百回も何千回も、幾万回も
それを打ち壊そうと向かって行く。
その為だけに
自身の意識、魂を一点に集中させて
貫き続ける力。
その集中させた力で撃ち抜いて
その先に大いなる世界を構築する力。
それがロックの魂なのだと思うのです。
ロックの魂は
自身の身を守るバリアを持たない。
常にノーガードで
現実と
そこに広がる世界を見つめ続ける。
何故バリアを持たないのか。
バリア越しでは
その力がダイレクトに外に放出されないからです。
だからノーガードでひたすら貫き続ける。
ノーガードだから
いつだって傷つくし、
傷が治らないうちにまた
新しい傷も作ってしまうもの。
ノーガードである事を良い事に
そこに刃を向けてくるものさえいる。
そして、それが影となり、
その闇に呑まれまいと
自らが輝きで人生を照らそうとする。
自らの輝きを影にかざし続けた結果として、
やがてその光を見て
集まってきてくれる人が
いてくれるなら、
それこそ最高の幸せであり、
ロック冥利につきると言ってもいいかもしれません。
そこがロックの本質だと思うのです。
爆音で歪んだ音に乗せて
雄叫びを上げるだけがロックではありません。
本物のロックとは
実に無垢なものです。
故に、真の意味でのロックを奏でるという事は、
まさに天使の仕事であると感じます。
そこにはきっと
何らかの天使としての使命を帯びた
魂がある筈です。
ロックの洗礼を受けたのなら
する事はただひとつ。
天の力の手となり足となり、声となり、
突き動かす力を
ひたすら生み続けるための道具となる。
ロックとは
そこまで高める事が出来るものだと
信じています。
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