置かれた場所で咲こう

今年の夏、
とある短い本と出会いました。
『置かれた場所で咲きなさい』という本で、
日本のキリスト教の偉いシスターの方が
お書きになった本だそうです。
この、
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉は
著者が外国人宣教師がもらった
手紙に書かれていた言葉だそうです。
原文は
「Bloom where God has planted you」
つまり、神様が(あなたを)植えた場所で咲きなさい。
本自体は、
コンパクトで優しさに溢れる丁寧な文章で
綴られていて、
また非常に心の滋養となる内容のものですが、
休日にまったりと
1日で読めてしまうほどのボリュームです。
特に僕の場合、このほんのタイトルである
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉が
心に響きました。
というか、
深く内省させられたと言った方が
正確でしょうか。
果たして僕は今まで
自分の置かれた場所で咲こうとしていただろうか、と。
多分僕は
自分の置かれた場所で
咲こうとしていなかったのだろうと思います。
「いいや、こんな世界は僕の世界じゃない」
そう思って
今置かれている自分の立場、状況を
否定し、黙殺してきたように思うのです。
自分の望む環境と
実際の環境のギャップを埋めるためにこそ
人生を励む意義がある、
そういう考え方もあるのでしょうし、
そう考えて生きる人を
否定するものではないのですが、
それはそれとして
僕の人生、そう言われてみると、
自身の行動原理の一番起点の部分は
「そうじゃない、これじゃない」
だからこうする。
そういう考え方で生きてきたように思います。
常に
否定という極性のステージから
世界を見ていたのですね。
ここは僕の咲く場所じゃない。
だから僕の咲く場所を探す。
いつも
「ここは僕の咲く場所じゃない」
という意識が念頭にあるから
何処へ行っても
自分の咲く場所じゃないと
思ってしまうものなのですよね。
結果、現状の僕はどうなったでしょう?
何処へ行ってもよそ者で、
居場所を探して点々として
結局、ひとりぼっちになってしまった。
もう僕のFacebookのページを見れば
それは一目瞭然でしょう。
恥ずかしながら、
これが僕なんです。
別に一匹狼や流れ者を気取ってるわけではないのです。
事実としてプライベートでの
僕の周りに誰もいない。
この迷子のような人生。
こうなってしまった原因の根本は
やはり、僕自身が
自分の置かれた場所で咲こうとしなかったことに
あるのだと思うのです。
もう否定の極性からみる世界は
十分味わったように思えます。
なので今度は
肯定の極性から世界を見てみよう、
そう思えるようになったのは最近の事。
「そうじゃない」という目線ではなく、
「そうなんだ」という目線で
世界を見てみようと。
そうなんだと肯定したうえで、
何処へ行く事も無く
ここに自分の居場所を自分で作って、
今僕に与えられた状況すべてを
是として味わってみようと。
それこそ、
誰も友達のいないそんな僕自身すらも
肯定して愛していこうと。
それで今、僕の世界に何か変化があったかと言えば
何も無いです。
何も無い事さえも肯定して、
そのままでも良いのだという土壌から
自分の世界を構築していくのも
良いのかなと、そんな心境で今を過ごしています。
居場所を探し続けて
辿り着いた先は
結局今の居場所だった。
もしかしたら僕は
典型的な青い鳥症候群だったのかもしれません。
というか、
きっともう探し疲れたんでしょうね。
自分の居場所を。
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