再生される身体と実存

以前、再生医療について
「行き過ぎると、命の価値が下がる」という
可能性があると示唆したことがあります。

ここからさらに深く考察してみると、
あながち、そうであるとも言えないのかもしれない
という気持ちもしてきました。

足や腕など、
まるで機械の部品を交換するように
簡単に再生できてしまうことで、
結果として、
「純然とした人の身体の価値」が
下がることは確かに間違いはないと思います。

けれど、このことによって
人は自らの肉体をぞんざいに
扱うようになる、というのは
未来の「悪い方の想定の一つ」に
過ぎないのかもしれません。

そもそも、
肉体がいかように再生されようとも、
人の実存の主体は
常に「自分」であり、
それは不変です。

自らの実存の所在は
「肉体にあるのか、精神にあるのか」
という問いに突き当たるからです。

この点は今後、
人類が熟考すべき問題だと思います。

例えば、
脳を別人に移植できる
そんな世の中になったとしたらどうでしょう。

Aという人物が
脳死したとします。

将来、別人の脳を移植して
生命を維持したとしたら、
ここでは仮にBという人の脳を
移植したとします。

そして移植は成功し、
そこにいる蘇生された人物は
AなのかBなのか。

さらにAという人物は
重大な罪人だったとした時、
Aという人物に移植された
Bという人物の脳は、
Aの罪を償うこととなるのでしょうか。

他人の臓器を、
別の他人に移植するということは、
オリジナルとしての人間の
実質存在の所在を
肉体に求めることは
できなくなることでもあると思うのです。

まして、ヒトの臓器ではなく、
幹細胞から培養された
「ヒトのものだった経歴のない臓器」は
果たして、自分のものと言えるのでしょうか。

培養された脳は、
以前、健常だった頃の自分と
全く変わらない意識、
そして「自己認知」を
持つことができるのでしょうか。

ならば、
人の実質存在の所在は
精神にあるのかと問うならば、
絶対的にそうとも言い切れないかもしれません。

なぜなら、
人は往々にして
「自分はこういう人間だ」という認識も、
それが実は本質ではないということが
ままあるからです。

自分のものだと思い込んでいる「肉体」に宿り、
自分だと思い込んでいる「自身」は
また別の精神に挿げ替えられるという
シチュエーションは
からなずしも、完全なフィクションであると
一蹴できるものではないと思います。

それほどまでに、
人間は自分のことについて
その定義を実に曖昧にしたままで
生きているのだから。

再生医療の技術の発展は、
実は、その曖昧なままにしていた部分を
明確なものにすることを迫るものかもしれません。

そのために人は問わなくてはならないのです。

自分は誰なのか。
自分は何者としてこの世界に存在するものなのか。

ここが明確になった時、
完全な再生医療は
肉体的な不老不死をもたらすのだろうと思います。


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