愛と排泄

日本神話では、
イザナミとイザナギが
泥のような混沌の中に
剣をかき回して国を作った、
というエピソードがあります。

これはセックスと子作りの
メタファーであると言われています。

考えたことがあるでしょうか。

人間の「排泄」する器官と
「生殖」をする器官は、
男女ともに、ごく近いところにあります。
男性に至っては
生殖と排泄をつかさどる器官として
およそ半分は共有されています。

どうやら、
股間から尾骶にかけて存在する器官は
子孫を繁栄させるために
重要な器官であるようです。

確かに、生殖や出産は
ある意味「排泄」です。
生命にとって最も「重要な排泄」です。
「崇高な排泄」です。

当然、ゆえに清潔であるべきなのですが、
「人間が最も不潔と感じる場所」の近くに
なぜ、生命を受け継いでいく器官が存在するのか、と。

ここで言う「不潔なもの」と言えば
もちろん便や尿のことです。

別に糞尿まみれのセックスなどしなくとも、
この場所は糞尿と精液がごちゃまぜになる場所であり、
そこを剣でかき回せば
「命が宿る」わけです。

実はここが肝で、
糞尿にまみれた場所に
命が宿るということは、
「便や尿を排泄するように」
子を作り、産んでいいとも
言えなくもないのだと思うのです。

こう聞いた時の違和感は
やはり「排泄物」と「命」を
等価に扱えない固定概念が
基底にあるからなのでしょうが、
考えてもみれば、
そもそも「糞尿」というものは
「肥やし」として
生命を維持するための食料を
育てる肥料になるものなのです。

近代の文明では、汚物というものは
施設で処理され浄化してしまいますが、
本来の在り方としては、
汚物は肥料という環境資源なのです。

つまり「汚物」は
子を生かすための食料の元として
土を肥やし、機能するからこそ、
命を繋げる器官のごく近いところから
排出されるし、
新しい命もそうやって排出されるのです。

普段、何気ない「トイレ」も
本来であれば立派な「国作り」であり、
誰のための「国作り」であるかと言えば、
「子」のためのそれであり、
ふたりが結びつき行われる
『最も愛の伴った排泄』によって
「子」は生まれるのでしょう。

そんな「子」もやがて成長し、
大人になり、新しい命を作り、
そして老いて死んで、土に還ります。

もともと「糞尿にまみれた場所」から生まれた命は
糞尿とともに、次代の人を生かす
「糞尿が成り代わった」土壌に還っていくのです。
ゆえに、長い目で見れば
「個体として肉体を持ったの生命」もまた
「排泄物」なのです。

「汚物」もまた「愛」なのです。

事実、セックスの時、
男女はその「汚物」にまみれたそれを
互いに受け入れ、慰め合っているのですから、
「汚物」は絶対的、客観的に
「不潔なもの」とは人は感じていないのです。

そこまでではないにしても少なくとも、
「形となった愛」を育て、
子々孫々繋げていくためには
「汚物」は必要なものなのであり、
「命も汚物」も近い場所から
排出されているのです。