輪廻

少なくとも今の日本の社会というものは、
「産んで、育てる」という点において
非常に貧弱な世の中であると言わざるをえないと思います。

そもそも、
「産み育てる」のに
不向きな社会構造があるし、
そうした構造を作った
人の価値観自体が
「産み育てる」ことの大切さを
重んじてこなかったし、
それは今でも同様に続いていることなのでしょう。

何故このようになってしまったかといえば、
もしかすると
「使い捨て」文化が
悪い意味で浸透してしまったからなのかもしれません。

当然、まさか世の人は、
「人命まで使い捨てする」
という観念に直接は達しないです。

けれど、
日常のほんの些細な「物」の使い捨ては
誰しもが、ほとんど無意識に行為しています。

この行為の蓄積が、
他者の人命に対して
他人事にさせる素地を作っているような気がするのです。

ここはとても大切な部分なのですが、
「価値の有無」のみで
その存在意義を推し量るというのは、
それすなわち、
「捨ててしまっていい存在がある」ことを
意味するのです。

価値のあるものは残り、
無価値のものは消えてもいい。
理屈は合っていますが、
その理屈を導き出した
人間の論理など、
所詮人間の頭脳で理解の及ぶ範囲での
「価値の有無」なのです。

そのような、半ばエゴとも言えるような
人間の身勝手な取捨選択が
「捨てられる無価値なもの」を生んでいるのです。

この「捨てられるべき無価値なもの」を産んだのは
母性ではありません。
むしろ、父性たる「パターナリズム」であり、
この社会は履き違えられた父性の暴走によって
形成されたものなのでしょう。

この悪しきパターナリズムが
次第に母性から
「産む力」を削いでいくのです。

故に「ヒト」は生まれるけれど
「人」が育たないのでしょう。

もちろん、
使い捨てていくことの方が
効率がいい場合だってあります。
また、一般には「使い捨てている」と
考えられていても、
実はしっかりとリサイクルされている、
そういうものも沢山あります。

なので通り一辺倒に
「使い捨て」は悪とは
言いがたいところもあるのも事実です。

大人は子供に
「物」が捨てられた後
どこへ向かい、そしてどうなるのか、
それをしっかり教えた方がいいと思います。

使い捨てたものがリサイクルされて、
めぐりめぐって
別のものとしてまた利用されていることを
もっと教えたほうがいい。

子供は好奇心が旺盛で、吸収力もあるから
そういう問答を通して
やがて大人に問うでしょう。
「人は死んだらどうなるのか」と。

そこでしっかりと「正しい答え」を
提示できる人、
あるいは子供と一緒に
そのことについて考えられる人こそが
「本当の大人」なのだと思います。

もちろんこの「正しい答え」というのは
パターナリズムによるところのそれではありませんから、
いくつもの回答のバリエーションが存在するでしょう。

けれど、そのバリエーションこそが
「世界」なのです。

問えば問うほど、
答えれば答えるほど、
世界は無限に拡張していくのです。

そうしたやり取りを通して、
人は性別を問わず
その精神に母性を育てていくのではないでしょうか。