絶対母性

一般的に定義されるところの
「母性」というものは、
まあネットで検索して
wikiに書いてあることを引用するなら
『女性が持っていると言われる
母親としての性質や、
子を産み育てる機能』
とされています。

確かに正しい定義だと思います。

ただ、この定義に固執してしまうと
本来の純粋な意味での「母性」から
少し意味合いが離れ、
パターナリズムの性質が現れてくるのだと思います。
一定方向に固執していく力は
「父性」の力でもあります。

一般的な定義としては、
上述のようなものとして
全く間違いはありませんが、
「母性」の定義は
もっと拡大、拡張されてもいいような気もします。
というか、
もっとシンプルに捉えると
「母性」の定義は
極大まで拡大できるのではないでしょうか。

数日前から話をしている通り、
「母性」とは
『産み育てる力』そのものなのです。
そこに「誰が」とか「誰の」という
概念は持ち込む必要はないし、
そこを問わないのであれば
これも数日前から話をしている通り、
男女の性の区別なしに
誰しもが普遍的に備えている
「摂理」なのだと言えます。

「本能」ではありません。
「摂理」です。
「本能」と捉えてしまうと
そこに男女の性差が出てきてしまいます。
「普遍的な摂理」
それが「産み育てる力」であり
「母性」なのです。

一般的な「母性」の意味合いとの違いに
違和感を覚えるのなら、
ここで新たに
「絶対母性」と名づけてもいいでしょう。

そこに「誰」という概念を伴わないということは、
言い換えれば、そして普遍的なものであるがゆえに、
それは「誰」にでも「何」にでも
置き換えることが可能なのです。

例えば「自然」という環境そのものは
「母性」の発露の最たる見本であると言えます。
「自然」は何を産み育てたかといえば、
もう想像に難くないでしょう。

「自然の中に生きる存在」
生きとし生けるものは、
「母性」という力の発現によって
それは存在しているし、
また「母性」よって
存在を次代へ繋いでいるのです。

この世界で起こるあらゆる
「自然の事象」というものは
その根底に必ず「母性の力」の発現があるのです。

人間だけが「母性の力」に抗います。
「母性」を
斬り崩したり、埋め立てたり、
形を変えて固めたり。

そういう社会を生きる
「母性」の根本たる「女性」もまた
自らのエゴによって
「母性」を歪曲させてしまっているのは、
明らかに人間が
「母性」そして、その補完となる
「父性」の使い方を間違えているからであり、
この使い方が違うということは
「命」の使い方も間違えている、
とも言えるのです。

女性に限らず、男性にしろ、
誰もそんな絶妙なバランスを生きている者など
いやしないと言うでしょう。

そう、そんな人はこの世には存在しない。

存在しえないほどに
「人間は愚か」だと言えると思います。

きっともともと
「愚か」だったわけではないのでしょう。

おそらく「知識」が
人を愚かにさせたのだと思います。

この大自然の根本的な摂理の観点から見れば、
動物の方が理に適った
自然にとって正しい生き方をしています。
人間という種だけが
「過ち」を認識できずに暴走しているのです。

今の社会が衰退し、縮小していくと
おのずと「女性主体」の世の中になることでしょう。
その時、「母性」と「父性」の有り様について、
新しくも正しい価値観によって
仕切り直せるかによって、
人間文明の存続の如何がかかってくるように思えます。

間違えて突き進んで、
自分から転がり落ちて壊れてしまった
「父性」をもう一度、手を差し伸べ、
正しく導くことのできるのが
「母性」なのではないでしょうか。

そしてその時、
本当の意味で「男女が平等」の
社会が実現するのだと思います。

ここまでたどり着けないと、
おそらく今まで何千年と積み重ねてきた
人間の歴史は途絶えてしまうと思います。

人類が途絶えようが、
「母性」はそれでも
常に何かを産み育て続けます。

それが「絶対母性」