娯楽論

結論から言うと、
人間に娯楽は必要です。
それこそ人間は娯楽のために生きているのです。
それが人の生の本質でしょう。

ただ、この娯楽の定義によっては、
その娯楽は毒にもなるのでしょう。

娯楽に惚けていては
やがて生活は成り立たなくなるし、
かといって、
娯楽を排除して
あくせく働くだけでも
「人の存在」は成り立ちません。

日本ではさもアリの方が正義だと
一般的に言われている
「アリとキリギリス」の話の
本当の寓意も、
アリもキリギリスも
どちらも良し悪しがあると説いているのです。

では、実際のところ
何を娯楽と呼ぶのでしょう。

僕は娯楽についてこう考えています。

人の心を高めるものは
良い娯楽、
人の心を卑しくさせるものは
悪い娯楽であると。

娯楽の対義として
労働という概念をここに
相対的な概念として取り入れるならば、
人の心を高める労働は
良い産業を生み、
人を卑しくさせる労働は
悪い産業を育てるとも
言えるのだろうと思います。

結局、娯楽も労働も
それを行使する人の
心の在り方によって、
その性質は正反対になる性質のものなのでしょう。

故に、
良い娯楽は人を高めますし、
悪い娯楽は人を堕落させます。
そして、
良い労働は人を高潔にさせますが、
悪い労働は人を卑しくさせるのです。

日がな暇さえあれば、あるいは暇がなくても
スマホにかじりついて、
アプリ内課金のゲームに興じ、
お金をつぎ込むようなら、
それは人をして娯楽に堕落したと言えるでしょう。

一方、たとえ過酷な労働条件であろうとも、
その仕事を心の底から愛し、
その仕事が自分の全存在に及ぶ
プライドとなるのであれば、
そのような人は
労働から奉仕へと精神を昇華させた
高潔な人物であると言えると思うのです。

この違いは何か。

おそらく、
心が満たされているか、
あるいは
満ち足りないかの差なのでしょう。

人の真理として、
常に正道はやはり
心が満ち、そして高まっていく方向に
あると思うのです。