パターン化されて再生可能な感情は現実の体験と言えるか?

ここ最近になって、
人間を模したロボットというものが
あれこれと出てくるようになりました。

大量生産とまではいかないにしても、
民間レベルで生産されるようになれば
生産技術がどんどん熟れてきて
事務的な仕事や
なりてのいない重労働などでは
ロボットが取って代わるようになるでしょう。

昨日の人工知能の話とも
関わってくることなのでしょうが、
人とロボットが共生する世の中になった時、
人はロボットと心を通わすことができるのでしょうか。

あるいは、
心を通わせてもいいのでしょうか。

人と心を通わせるには
やはり「感情」という要素は
不可欠です。
この「感情」に同調できなければ、
人はロボットとの垣根を
取り去ることはないと思います。

そしてまた、可能になるとして
ロボットに「感情」を持たせることは
是なのか非なのか、
それも考えるべきでしょう。

例えば、
介護や看護の仕事など。

これは肉体労働に加えて、
感情労働とも言える仕事です。

こういう仕事に就く
生身の人間でさえ、
介護や看護の対象になる人に対して
積年の感情から、
つい衝動的に過ちを犯してしまうこともあるというのに、
善悪の概念のないロボットに
不用意な感情を植え付けたところで、
不幸を生む種になるだけのような気もします。

ならばロボットに感情は不要という
結論に至るのでしょうが、
それならば人はロボットに対して
感情的な垣根を取り払うことはないまま
となるでしょう。

そもそも、
「感情」という現象は
知能を持った人間が
その人生において体験する
何かしらの「認知」から得られる
フィードバックであり、
そのフィードバックこそが
後天的な人格を形成する材料となる、
そういう「有機的」な現象なのです。

人間、こういう部分では賢い人がいますから、
この「有機的」な感情という現象も
パターン化してしまいます。
この「感情をパターン化した体系」こそが
心理学のことであり、
そこから導き出される「人の心の性質」から
より多くの経済的な利益を生む
ノウハウさえ導き出されています。

故に、
人から一定の感情を引き出す法則を
人工知能、あるいはロボットに
組み込めば、
おそらく人間は
ロボットに対して心を通わすことはなくとも、
ロボットが引き出す感情を
そのまま「自分の生み出した感情」として
体験もするでしょう。

けれど、それは
有機的に「自発的体験」として
生成された感情ではありません。
あくまで
心理学的なアプローチによって導き出された
パターンに人が陥っているだけのことなのです。

ロボットが自らにインストールされた
「感情を引き出すパターンのプログラム」を
実行して人間から一定の感情を引き出すことによって、
人間の次の行動を誘発させる。
この繰り返しが長く続くことで、
気がつけば自分の行動は
「ロボットのみぞ知る」という状況になり、
これが人間を
よりロボットに依存させていくでしょう。

例えば、現代の先進国に生きる人間が、
10km先の距離を歩けず、
車や自転車などの道具に頼るように、
ロボットの力なくして
10年先までも
ロボットなくして生きられない、
そういう時代になるかもしれません。

まして、ロボットは
自分以上、人間以上になんでも知り、
なんでもできる存在です。

文明の利器が
人のあらゆる器官、機能を退化させたように、
「人が生きること、そのもの」さえ
退化していくでしょう。

そしてやがて、
魂までもパターン化されていくのです。

パターン化されれば
おそらく再生や復元も可能でしょう。

しかしその知識や技術は
ロボットの中の叡智に存在し、
人はそれに依存して生きながらえるのです。

ロボットはこうして
神になる日も、そう遠くはないかもしれません。

ただ、

『パターン化され、再生可能となった生命は、
尊さという一点において本当に命と呼べるのか』

人間もこの点については
よくよく考えた方がいいと思います。